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馬房

小説は妄想と捏造甚だしい。 原作のネタばれ、都合の良い解釈。 R18、グロ(精神的にも)、暴力表現などが含まれます。 冒頭にざっと注意を書いてありますので、それを読んだ上での 閲覧を宜しくお願い致します。何かあればご連絡いただければ幸いです。 基本的に右ジャンしか書きません。 萌が斜め上です。無駄にシリアスバイオレンス脳です。 拙い文章ですが、少しでもお楽しみ戴ければ嬉しく思います。 右ジャン、ジャン総受けしか書きません。あしからず。

飼われる男と一般人=その三

飼われる男と一般人の続き=その三




 朝、気怠い体を起こして適当にプロテインを飲み、ストレッチをしてから学校へ向かう。
 天気は良く、爽やかな朝であった。マンション前のゴミ捨て場で、ご近所の奥様方が会話に華を咲かせている程度には。
「うっそ、それほんと?」
「やだぁ……、そんな事する人じゃないと思ってたのに……」
「でもさー、っぽいと言えばそうじゃない?」
「あたしが聞いた話だとね……」
 ご婦人方の『それ』は会話。なのだろうか。
 漏れ聞こえてくるものは、それぞれに好き勝手な発言をして、会話として成り立っていないような気がしたが、フロックには関係のない事柄だ。そのまま横を通り過ぎ、大学へ向かう道すがら、奇妙な男に呼び止められた。
「ねぇ、君、あそこのマンションから出て来たよね?住んでるの?」
「そうですけど、何ですか?」
 馴れ馴れしく話しかけてくる男性は、背が高く、優しげな面差しに黒縁眼鏡かけ、ハンチング帽を被っていた。帽子に覆われてない部分の髪は黒々と輝いており、若々しい印象を受ける。
「あ、僕こう言うものなんですけどね」
 差し出された名刺には、新聞社の名前と記者である身分を表す文言が記され、名前はピュレと書かれていた。
「新聞記者の方が何の御用で?」
 渡された名刺を確認した後、そのまま相手へ不躾に返す。
 何を調べたいのかは知れないまでも、今は電車の発車時刻が迫っている。のんびりしている暇はないと言うのに迷惑な話である。迷惑そうにあからさまに不機嫌な面持ちにして、行こうとしていた先をちらりと顧みた。
「えっと、時間ない感じ……?」
「はぁ、普通にないですね。ちんたらしてたら電車出ちゃうんで、失礼します」
 新聞記者を無下にあしらい、背を向けて歩いていく。
「待って待って待って、大学生?何なら車で送るから、ちょっとでいいんだ、話を聞かせて欲しいんだよ」
 いやに食い下がる。
 たかだか一人の大学生への取材に何をそこまで固執するのか。
「電車だけじゃなくて腹も減ってるんで、学食のメニュー、遅く行ったら不味いのしか残ってないんですよね」
 通常でも、そこそこの程度の学食は、当然ながら時間が経てば経つほど、良いものから消えていく。最後に残るのは不人気メニューだ。それもあって早く行きたいのに、このピュレと言う記者はしつこい。
「何ならご飯も奢って上げるから、ね?美味しいとこ知ってるから。少しでいいんだよ取材させてくれないか」
 背を向けて、無視して去ろうとした足が思わず止まる。
 卑しい話だが、どうせ食べるのであれば、美味しい方がいいに決まっている。懐が痛まないのなら更に良い。
「話って何をすればいいんですかね?」
 ぱっ。と、ピュレの表情が華やぎ、ええっとね。忙しなくボディバッグの中を漁り、手帳とペンを取り出す。
「立ったまま?」
「あっ、そうだよね。ご、ご飯行こうか、車あっち」
 身分を明らかにしたとは言え、知らない人間にのこのことついて行く己の浅はかさも、正直な所どうかとは思うが、路上駐車されていた車に乗ってしまったので、幾ら考えても後の祭りだ。
 後部座席からの見晴らしは悪くないものの、社用車らしい車は年代物の古いセダンで、外装は所々錆が浮いており、内装はやや埃っぽく、布が擦り切れている個所も見受けられ、エンジン音は甲高く、煩く感じられた。記者とは言ったが、大手ではなく小さな出版社なのか。
 五分ほど経った頃、ウィンカーを上げる音がして車が減速し、左へ曲がりながら、小さな駐車場に入る。六台ほどが入るようだが、この一台が入ると満車になった。
「さ、着いたよ。何食べたい?ハンバーグとか?」
 子供か俺は。
 心の中だけで毒吐き、古びた喫茶店へ案内される。
 取材とは、秘密裏に行われるものではないのだろうか。こんな誰とも知れない他人に聞こえる場所でしていいものなのか。フロックの疑問を他所に、慣れた様子でピュレは喫茶店の中に入って挨拶をする。店主とは顔見知りのようだった。
 昼時とあって、店内には客が複数存在していた。取材など出来る雰囲気ではなさそうだが、構わずピュレは、慣れた様子で衝立で区切られた奥テーブルへと足を運び、早速コーヒーを注文すると、メニューをフロックの前に広げる。
「ここのサンドイッチとか、パスタとか美味しいよ」
 視線でメニューの文字をなぞり、腹が満足するようなものを探す。
 フロックは悩む。体をずらして衝立の向こう側に居る客の食事を覗き見て量を測った。喫茶店の料理は量が少なく、高い印象しか持っていなかったからだ。
 ちら。と見えたオムライスは中々の大きさで、ランチであればサラダと、スープにコーヒーもついてくると書かれている。テーブルの端に、『今日のランチ』と書かれたプレートが置かれ、そこにはオムライスと、トマトソースのパスタ、野菜とハムのサンドイッチと三種類ほど書かれていた。
 メニューをずらして上目遣いにピュレの顔色を覗く。何もかわい子ぶっている訳ではない。取材に対する必死さを測っているのだ。
 ピュレは笑ってはいるが、机の上に組んだ手はそわそわと落ち着きなく動き、こちらを凝視している。早く進めたいようだ。
「ランチのオムライスと、プラスでサンドイッチお願いします。コーヒーはカフェオレがいいです」
 近くに立っていた中年の女性へ注文を通し、机に置かれた水を口に含む。
 この様子であれば、多少大目に頼んでも文句は言われまい。
 相手の望む情報を自身が持っているかどうかは判断出来ないが、それでも、声をかけて来たのはピュレの方で、懇願したのもそうだ。この取材が彼にとって有益であれ、無益であれ、必要経費だろう。
「早速だけど、この男の人知ってるかな?」
 コーヒーの提供を待って、ピュレが口を開く。
 やや馴れ馴れしいのは、親近感を持たせて取材を円滑に進めるためだろうか。人を選びそうな方法ではあるが、ピュレが温和そうな見目をしているため、そう嫌な印象は受けない。が、それとは別に目の前に置かれた写真をフロックは真顔で凝視する。
 写っていたのはジャンを飼い、暴力を振るうあの男。
 記者だけあって、ピュレはフロックの表情の動きを見逃さず、机の上で手を組み、笑みを深めて顔を寄せてくる。
「この人、君の住んでるマンションに良く出入りしてるそうなんだけど、見かけた事、あるよね?」
 固有名詞は決して出さず、知っている前提で話を進める辺り、誘導尋問なのか、あるいは、ただ単純に早く答えが欲しいのか。フロックは逡巡する。どう答えるべきなのか。出入りしていたからどうなのか。出入りしている『その理由』も、フロックは知っている。
「多分、見た事はあるかも知れませんけど、この人が何かしたんですか?事件でも?」
「残念ながら、僕は事件を扱う記者じゃないんだ。まだね。新米だし」
 相手がどんな情報を欲しがっているのかが知れないため、情報を小出しにしてフロックは探りを入れる。首を撫でて照れ臭そうに『まだ』を強調するピュレに少々苛立ち、お前の情報はどうでもいい。早く本題を話せ。とばかりに睨み付けてしまう。
「そんな仰々しい話ではなくて、浮気調査みたいなものかな……」
 一気に拍子抜けした。何らかの不正、汚職などの容疑であれば失脚もしかねないが、ただの個人的な私生活の粗探し。醜聞と言えば醜聞ではあるが、そんなものはどうでも良かった。あの暴力男に相応しい、身を亡ぼすような社会的制裁が降りれば良いと。更に望むならば、ジャンに害が及ぶ事なく、穏便に開放されれば。と、考えた。
「金持ちの愛人作りなんて、俺はこれだけ囲える甲斐性があるんだぞ。みたいな一種のステータス扱いでしょう?勝手にやらせておけばいいじゃないですか、他人の下半身事情なんて探って恥ずかしくないんですか?愛人になってる人だって私生活を引っ掻き回されていい迷惑でしょうに、阿保臭い……」
 勝手に期待を裏切られたような気になった事と、ジャンには出せずに溜まった鬱憤まで飛び出した。酷い八つ当たりだ。自己嫌悪まで襲ってきてしまう。
「君、この人の愛人が誰か知ってるんだね?」
 気不味さと不機嫌も露わに頬杖をつき、顔を背けていれば、ピュレはメモにペンを走らせ、確信を持った言葉を吐いた。
 言い過ぎて気分を害しただろうと想像していたが、相手はそれの上を行った。
「知りません……」
 小声で嘘を吐くが、ピュレは首を振る。
「君、愛人になってる人を庇ったじゃないか、顔見知り程度じゃないよね?関係を知ってて仲良くしてるとか?……もしかして、その人が好きだったりするのかな?」
 顔に熱が集まる。言葉よりも饒舌に、顔色が答えを表した。
 歯噛みし、フロックはピュレを強く睨み据える。
「君の恋心を踏み躙りたい訳じゃないんだ。しかし、僕も仕事でね。社会派でやりたいのは山々なんだけど、調査力がこれだけあるんだって認めさせるための実績も積まないと信用されない世界だから」
「勝手ですね。そのためなら人の生活を踏み躙ってもいいと?」
 実績を積むために選んだのが私生活の粗探しか。蔑みも込めてフロックは表情を歪めた。心情が大分ジャン寄りになっている事は致し方ない。知らない他人の夢よりも、知った友人の方へと情を寄せるのが人間だ。
「まぁ、そう……、だね。返す言葉もないよ。記者になる前は、巨悪を暴いて世界を変えてやる……、なんて燃えてたんだけどね……」
 マルロも零していた理想と現実の違い。どこにでも転がっている話ではある。
 フロックも、ジャンと出会ってから、自らの無力を思い知らされるばかりなのだ。もっとこう出来れば、何故。との自問自答は多い。本当に、良くある話なのだ。嫌気がさすほどに。
「浮気くらいしか、本当にないんですか?他に色々……」
「と言うと?」
 カフェオレを啜りながら、フロックがぽつりと言えば、ピュレは身を乗り出して訊く体制に入る。それほど重要なものを知っている訳でもないのに、食いつかれると思わず引いてしまう。
「いや、浮気とか、そう言うので騒ぎになったら、もっとばれたらやばいものを隠すだけじゃないですか?何となく思っただけですけど……」
 清廉潔白を気取っている人間が浮気問題で晒し上げれられた際の傷が浅いかどうかは兎も角として、騒ぎが大きくなればなるほど、他の致命傷となりかねないものを隠し易くなるのでないだろうか。本来ならば、あってはならない友好関係、汚職や、不正行為。あの薄ら寒い笑顔の裏に隠れている暴力性とて、ジャンと言う人間を使って隠している化け狸だ 。
 解り易い隙をわざと作り出し、先にそちらに食いつかせる事で本当に隠したいものを隠す。申し訳なさそうな顔で頭を下げながら、騒ぎを隠れ蓑して、決して白日の下に晒されたくないものを周到に隠蔽しにかかるのではないだろうか。浮気を探るよりも先に、他に探るものがあるのではないか。
「陰謀論じみてますね。忘れて下さい……」
 愛人が誰か。までは発覚はしていない。ならばと足掻く。
 ジャンを調査の標的から外そうとする浅はかな誘導など、新米とは言え引っかかるかどうかは判じれない上に、どこぞのカストリ雑誌のような世迷いごとを口にしたフロック自身も、思いつきで語る言葉が次第に恥ずかしくなり、ピュレの顔がまともには見れず、カフェオレの入ったカップから目を離せないでいた。予想、推論、憶測、こうであれば良いとの希望、あまりにも社会的な経験が浅い若造の考えだ。
 程なくして提供されたサンドイッチを食べ、次いで置かれたオムライスも美味しそうではあったが、食べる事なく席を立つ。
「ごちそうさまでした」
「えっ、これは?」
 オムライスを指差して中腰になり、ピュレが引き留めようと焦り出す。
「もう要りません……」
「あ、あの、本当に君には迷惑はかけないし……、あ、そっか、嫌だよね……、うん、協力してくれてありがとう」
 陰鬱な面持ちで、顔ごと逸らすフロックに、もうこれ以上の情報は望めないと理解したのだろう、想い人を奇禍に巻き込みかねない相手と和やかに談笑するはずもないと。
「あ、せめて送るよ……。大学どこかな?」
 フロックは逡巡するが、店内のアンティーク時計が示す時間を見るに、一々歩いて駅を探し、電車を待つのは無駄に思えた。学生証を提示し、ピュレに行き先を示す。
「あ、すみません、オムライス取っといて貰ったら後で……!」
 店主に断りながら金を払い、店を出ていくフロックをピュレが慌てて追いかける。
 乗った時と同じように後部座席に乗り、特に方向案内は必要がなかったようで、車は迷う事なく真っ直ぐに大学に向かい、然程時間もかからず目的の場所が視界に入ってきた。
 車を門の前につけて貰い、謝辞を述べてから構内へ入っていく。
 解放されたからとてフロックの表情は晴れず、苦々しい面持ちで地面を見ながら歩いていた。
「ちょっと、あんたいつから車で送って貰うような身分になったのよー」
 馴染みのある声に振り返れば同級生のヒッチが不機嫌そうな面持ちで近寄ってくる。
「別に、送ってくれるって言うから乗っただけ」
「知り合いかなんか?」
「いや……」
「は?知らない人の車に乗ったの?馬鹿じゃないの?危機感なさ過ぎてびっくりするんだけど、攫われたりしたらどうすんのよ」
 短い問答の間にヒッチは何とも姦しい。
 ただ、口は悪いが心配をしてくれているのは理解する。
「男だぜ?攫ってどうすんだよ。ちゃんと名刺見せてくれたし」
「ばっかねぇ!今時、名刺くらいパソコンとプリンターがあれば幾らでも作れるじゃないの⁉男だって分かんないわよ。変態の所に連れてかれるとか、気が付いたら内臓が減ってましたとか洒落になんないでしょ」
 きゃんきゃんとヒッチが耳元で喚き、呑気なフロックを叱り飛ばす。周囲を歩く人間は、興味深げに二人を見て、目が合えば逸らす。痴話喧嘩か何かかと思い、聞き耳でも立てているのか。
「何事もなかったんだからいいだろ?」
 ヒッチは今にも地団太を踏みそうなほど苦々しい表情でフロックを睨み付ける。無事は結果論であって、今後気をつけろと忠告しているにもかかわらず、察せないフロックに苛立ち始めてしまったのだ。
 普段のフロックであれば、嫌味であれ、素直にであれ、もう少し気の利いた科白を返せたであろうが、現在の状態は気もそぞろで、呆けている。と言っても過言ではない。叱るよりも怒り出したヒッチが、不意に気づき、訝しげな視線をフロックに送る。
「どうしたのあんた?」
 怒りは継続中で、言葉は刺々しいが、声色に心配が混じり出す。
「どうって言うか……、人を好きになるってのが、どう言うのか良く解んなくなっちまって……、頭がどうもバグってるっぽい」
「あんたが恋煩い?うわ、うける」
 口元に薄笑いを浮かべ、手を当てて体を仰け反らせながらヒッチは挑発するが如き発言をする。
「っせーな……」
 しかし、フロックはそれには乗らず、地面に向かって肺に溜まった空気を押し出し、亀にも似た歩みで校舎へと向かっていく。
「重症ねぇ……、あんたを射止めたのはどんな人よ……」
「世話にはなってるけど……、そんなんじゃ……」
 隣に並んで歩きだしたヒッチが、俯くフロックの顔を覗き込むようにしながら話しかける。表情に嘲る調子はなく、純粋に気にかけてくれているようだった。
「お世話になってるから好きになったの?」
「それが解んねぇから……、困ってんだよ。いい奴だとは思うけど……」
 今まで、曖昧だった気持ちが、ピュレの発言によって形を得ようとしていた。ジャンをどう言う意味で好きなのか。ジャンへ己への気持ちを問うよりも、先ず己へ問いかけなければ答えが出せない。しかし、自分自身の気持ちが理解出来ないまま、ここまで来た。今更だ。
 曖昧なままでもいいのでは。うやむやにしておいた方が安寧で居られる。どこからか、警鐘を鳴らす音までしてきてしまっているのだ。そう考える事自体、心が掻き乱されている明らかな証拠でもあるのだが。
「好きかどうか解んないの?」
「どう言う好きなのか、ってのが先ず解んねぇんだよ。」
 ふぅん。と、ヒッチが鼻を鳴らす。
「友達として好きなのか、その、恋愛対象として好きなのか……、ただ心配なだけなのか……、全部入り混じってて答えが出ねぇ……」
「何だか複雑ね」
「聞いて驚け、そいつは人のもんだ」
「人妻とか?うわ、ふもーすぎなぁーい?」
 卑屈に、自虐的に笑い飛ばせばヒッチも乗ってくれる。しかしながら、直ぐに軽口は止まり、重々しい沈黙が下りてきた。空元気は続かないものだ。
「恋愛的な意味で好きだって認めちゃったら、ややこしくなるもんねぇ……、顔も合わせにくくなるしぃ?」
 沈黙を破ったヒッチの言葉が心臓に突き刺さる。
「自分を騙してでも離れたくないくらい好きなんだ?」
 心臓がどくどくと暴れ回り、否定しようとしても唇が戦慄くばかりで使い物にならず、閉じて唇を噛み締める。
「泣きそうな顔しちゃってぇ……、ほんっと重症ね」
「っせぇ……」
 紡げたのは下らない一言のみだ。
 動悸が治まらず、呼吸まで苦しくなってきてしまった。
 フロックは矢庭にヒッチの細い手首を掴み、半ば引き摺るようにして人気のない場所まで引っ張っていく。後ろから苦情を喚き立てる声は聞こえてはいるが、耳を通過してただの雑音に成り下がっている。
 辿り着いたのは屋上へ続く扉がある非常階段の踊り場。
 屋上自体は危険防止のために締め切られており、面白みも何もないただの行き止まりでしかないそこは滅多に人が来ず、来たら来たで直ぐに判る絶好の場所であった。全てを吐露するには。
「あのな……、あの……」
 途切れ途切れながらも、フロックは今まで感じた感情を言葉に変え、支離滅裂になりながらも懸命に吐き出す。
 それを、ヒッチは茶化しもせず黙って耳を傾け、時に、うん。とだけ相槌を打って促し、フロックが涙を零せば肩にかけていた大きなトートバッグからハンカチを出し、渡してくれた。
「難儀な恋してるわねぇ」
「こい、なのか、これ……」
 呼吸すら苦しくなり、咳き込んで鼻を啜る。
「その人の事ばっかり考えて、泣きたくなったり、怒ったり、嬉しくなったり、兎に角、感情が揺さ振られて、自分が自分じゃないみたいに振り回されるのが恋なんじゃない?私はそう思ってるけど」
「なるほど……」
 啜っても垂れてきそうになる鼻水を、思わずハンカチで受け止めてしまい、ヒッチに嫌そうな顔をされた。
「それ上げる……、安物だし……」
「すまん……、おまえ、今……、きづいたけど、いいおんなだな」
 許可を貰うや、フロックは顔中を拭き、よろめくように壁に凭れかかると、力の抜けた姿勢でヒッチを褒める言葉を零す。当の本人は、唐突な誉め言葉に、眉を顰めただけだが。
「今更?私は今も昔もずっといい女やってんだけど、見る目なさ過ぎなんじゃない?」
 ふん。と、鼻であしらわれ、フロックは苦笑を漏らす。
「ははっ、確かに女を見る目はねぇかもな、男に惚れ……」
 言い終わる前に気づいて口を抑えたが、流石に伝えていなかった重要な部分は既に漏らしてしまった。解り易く動揺し、薄汚れた明り取り用の窓、締め切られた扉、埃の積もった床、生成りの壁を順に見て、最後に恐る恐るとヒッチの様子を窺う。
「男……?あんた、惚れた相手男なの?どんだけ茨の道進んでんのよ……」
「いばら……、はは……、そうだな……」
「落ち込まないでよ。私が苛めてるみたいじゃない」
 目から光がなくなり、虚ろになったフロックの肩をヒッチが叩くが回復する様子はない。釣られてか、ヒッチまで重々しい表情になっていく。
「いい方に考えれば、その人はあんたを拒絶してない訳でしょ?どんな人かは知らないけどさ、憎からず想ってるから面倒も見てくれるし、その……、自分の状態を知ってても側に居てくれるから、心の支えとか、癒し?とかなってんじゃない……と、思う……?あーもう、知らないけどっ!」
 推論をたどたどしく述べ、最終的には投げ出した。恐らくは己の失言を改めると同時に、慰めようとしてくれたのだろうが、学友のフロックは兎も角、見ず知らずのジャンの人となりまでは知りえないため、どう言えばいいのか判らなくなってしまったようだった。
 当たらずとも遠からず。だといいな。と、フロックは思う。
「ハンカチ、新しいの買って返す……」
「可愛いか綺麗なのね。変な柄物とか渡したらぶっ飛ばすわよ」
「おっかねぇな……」
 空笑いを浮かべ、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになってしまったハンカチと同じく、己の顔も随分酷いだろうとの予想はついた。だが、すっきりはした。吐露する相手が何故ヒッチだったのかの疑問は残るが。
「何よ、じろじろ見て、気持ち悪いわね」
「さりげにひでぇな、お前。でも、案外いい奴だよな……」
「褒めてんの、それ……」
 偶々、声をかけてきてくれたからか、それとも、軽薄そうな割に、仲間思いの信頼出来る人間で、答えをくれそうだったからか。恐らくは両方だろう。吐き出せるのなら誰でも良かった訳でもないのだ。
 泣き過ぎて酸素不足になったのか、ややぼんやりする頭のまま、ヒッチを伴って講義室に入れば、どこからかヒッチを連れ去った現場を見ていたらしい友人等に揶揄られた挙句、顔の酷さから、フロックはヒッチに告白して振られた事になりかけてしまった。
「好きな人が居るけど、どうしたらいいか判んない~。ってぴよぴよ泣くひよこにアドバイスして上げてただけだから」
 否定も肯定もし辛い説明にフロックは、ひゅ。と、息を呑み、手をばたつかせるがヒッチの一睨みにより硬直して動けなくなった。揶揄り倒す腹積もりだった友人各位の視線は、一気に別物へと変わり、それぞれに、愛想笑いをする者、解り易く憐憫を向ける者、興味津々で目を輝かせる者と分かれ、興味を持った者は仔細を教えろとしつこく絡む。誰にも言わないから。などと言うが、全く信用出来ずだんまりを決め込んだ。
 講義終了後、ヒッチに暴露した理由を聞くと、揶揄られ続けるのが嫌だった事と、フロックが連れ去ってしまったが故に、昼食を取り損ねた意趣返しだと告げられた。不意に腹から大きく鳴った音に謝る以外の選択肢はく、ピュレの奢りで浮いた昼食代はヒッチの胃袋を満足させるために使う事になってしまった。
 〇●〇●〇
 アルバイトは休みのため、帰ってから何をしようか適当に考えながらぼんやりと帰宅する。
 今日は妙に疲れてしまった。まだ日は明るいが、とりあえずは体の汚れを落として、気分をさっぱりさせたい気持ちでいっぱいになる。
「お帰り」
 かけられた声に、弾かれたように頭を上げ、目が合えばじわじわ顔が熱くなってくる。
「どうした?顔赤いけど、風邪か?」
 ジャンが玄関前の外廊下で、柵に寄りかかりながら風に当たり、景色でも眺めていたのか立っていたのだ。治まっていたはずの動悸が、また激しくなり、心配げに伸ばしてくる手を咄嗟に避けてしまった。
「だ、だいじょ、ぶ……」
「大丈夫って顔色じゃねぇぞ?」
 自覚をしてしまえば気不味くなる、顔を合わせ難くなる。ヒッチが指摘した通りである。急に喉がからからになって張り付き、声もまともに出せはしない。
 一度避けられたからか、それ以上、手は伸ばしてこなかったが、立ち尽くしているフロックを、ジャンはじっと見詰めていた。唾液を飲み込み、喉を潤してから口を開く。
「お前、は、何してんだ?」
 掠れて聞き取り辛い音声ではあったが、ジャンはきちんと聞き取ってくれたのか、そうだな。と、返す。
「実はお前待ってた。そろそろ帰ってくるかなー。って、俺凄くねぇ?」
 得意げに目を細めて口角を上げる顔がどことなく可愛げがあるように見えて眩暈がしそうだった。何故、こんな奴を好きになったのだろう。
 どうして。
 与えられた食事が美味しかったからか。憐憫と庇護の情が相まって拗れたか。こうして接してくれるから勘違いをしてしまったのか。どれにしろ、成就しない感情は辛く痛々しいものだ。
「スマホ?買ったんだけどさ、色々設定とかが良く解んなくて、教えて欲しいんだけど」
「説明書は?」
「読んだけど、意味が解らん言葉が多過ぎてなぁ。メール設定しろとか、なんかごちゃごちゃ入れたり、あ、テザリングってなんだ?なんかデザインする機能とか?」
「そこから?」
 確かに、ジャンの持っている端末はやたらと古めのものではあったが、そこまで知識がなかったとは驚きだった。立ち話もなんだから。と、部屋に呼ばれ、詳しく聞けば今までのものはメールと、通話機能以外は全て使えないそうで、名義もジャンのものではないらしい。そもそもが、なにも持たされずに追い出され、契約するための身分証明書すらなかったからと。
 今時、個人のプライベートや、企業秘密でもない限り、インターネット上で調べれば出てこない情報はほぼないと言える。テレビもない、ラジオもない、フロックの知る限りでは、料理に関する本や、小説は各種あったが新聞や、世間の話題を語る雑誌類は置いていなかった。余計な暴力を振るわれる事を考えれば外でのんびりする余裕もない。完全ではないにしろ、外界からの情報を得られないようにしているのか。
「なんつー面だよ。ありのままを話してるだけで、別に不幸を嘆いてるとかじゃねぇから」
 悟ったようでありながら、世間ずれをしていない雰囲気はあったが、そのせいだったのか。知らない事が多過ぎれば他人との交流もし辛く、より世界は狭まり未知への恐怖や不安から外へ出る行為に二の足を踏むようになる。そして、接する唯一の存在へ依存するようになる。まるで洗脳だ。
 飛躍した発想が頭を巡り、表情が険しくなっていたフロックに、ジャンが笑いかける。それでも笑えなかった。どんな気持ちで偶々近くに居ただけの人間に『話をしよう』と、笑いかけたのか。どんな気持ちでおざなりに零す、フロックにとっては『当たり前』の話に耳を傾けていたのか。勝手に想像が先走って、堪らない感情が湧き起こる。
「学校でやな事でもあったのか?」
「嫌な事じゃない……、けど」
 家に招かれ、ジャンが香りの良い紅茶を机の上に置きながら訊いてくれる。
 今まで話した愚痴のような話でもジャンにとっては刺激になる面白い話だったんだろうか。むぅ。と、フロックは呻り、カップで手遊びをしながら、ふと気づいた。
「おい、新しいの持ってるって事は契約してきたんだよな?どうやって?」
 身分証明書もないとほんの今しがた言っていたのではなかったか。
「実はさ……」
 ジャンは言いながら、おもむろに尻のポケットから一枚のカードを出して見せた。用意してたと言う事は見せたかったのだろう。顔写真付きのカード自体はこの町の住人である事を証明するためのもので、確かにこれがあれば契約も出来るだろう。
「持ってんじゃねぇか?」
 いや待て。と、フロックはカードを表と裏を繰り返し眺める。長年持っていたものにしてはやたら真新しい。
「ちょっと実家があった所に行ったんだ。幸い戸籍は残してくれてたみたいでさ、そっから住民票とか色々取ってから、住所を移したり色々してきた」
 フロックはジャンの生家がどこかは知らないが、行動を起こしたとすれば、不在だった三日間だろう。頑張ってみるとはこの事だったのかと得心いく傍ら、家族の話もなく、実家に『帰った』とは言わず、飽くまで『あった所に行った』としか表現しない事に、離別の記憶がジャンの心に強固な根を張っていると知れた。最早、過去を赦す赦さないの域ではなく、完全に赤の他人として扱っているようにフロックには思えた。
 血が繋がっていようと、情がなければ顔を知っているだけの他人とさして変わらないと理屈では理解出来ても、そんな経験がないフロックには想像し難かった。ドラマや漫画、小説で語られる口には出さずとも伝わる愛や、絆、情。
 それらは語られるほど綺麗でも尊くもなく、強いようで脆い。と、思える事実を、初めて目の当たりにした瞬間でもあった。
 
「携帯を自分で契約したのって初めてだったんだけどさ、ややこしいなー。プランがどうたら、通信制限がどうたら、兎に角一番小さいのでいいです。って言ったんだけど大丈夫かな?」
 沈むフロックの心を他所に、ジャンが、まだフィルムが貼られたままの新品のスマートフォンを弄る。充電はとっくに済んでいるようで、動作には問題はないそうだが、なにせ通話とメール程度しか扱ったことがなかったため、初期設定などがちんぷんかんぷんなのだと言う。
「仕方ねぇな……」
 大儀と言わんばかりの動作でフロックはジャンの隣に移動し、肩を寄せながら硬質プラスチックの表面を叩き、なぞっていく。
「メールアドレスは何がいい?」
「これって重要なのか?」
「もし画面にロックかけたりして、それを間違い過ぎるとメールアドレスでの認証が要るんだよ。だからパスワードと一緒にきちんと管理しないと駄目だからな」
 床に膝立ちになり、ジャンの隣で机に凭れながらメールアドレスや、パスワードを考え、あれはこれはと提案するものを、フロックは却下していく。
「じゃあ、何ならいいんだよ」
「自分の名前とか誕生日系は駄目だ。そう言う安直過ぎるもんだと、他人に弄られた際に割られても下手したら自己責任扱いになるんだよ」
 提案を次々と却下され、やや不満を表し出したジャンに、きちんとした理由があるのだと告げ、再度考えるように促す。
「わられる。ってなんだ?」
「あー、えーっと……、パスワードを解読されて中身を見られるって事」
 細かい説明を求められるのは案外面倒だ。常であれば略称や通称で通じる会話が通じないのはもどかしい。ものを教える際は幼児に接するように。との誰かから聞いた言葉を、フロックはしみじみ実感する。
「見られて困るもんは特にないけど……」
「お前がないと思ってても、見る側からしたらあるんだよ。携帯電話も進化してんだ。設定すりゃこれで支払いや買い物が出来るんだから、下手したら万単位の請求がお前にくるかも知れねぇぞ」
「それは困るな……」
「だろ?」
 まだ幼児よりも話が通じ安くて良かった。
 フロックの説得に納得し、鞄から出して渡したメモ用紙を前にして、きちんと考え出したジャンに安堵していれば、眉を顰めるようなメモを渡してきた。
「おい、フロックキューティーフロッグ……、ってなんだよ……」
「音が似てるから何となく。覚え易いしもう思いつかないからこれでいいだろ?四文字の認証パスワードもお前の誕生日で入れとくから教えろよ」
 完全に面倒くさがり出してしまった。ジャンは残ったメモ帳にぐるぐると渦巻きを書き続けている。もう、考えたくないとのささやかな反抗か。
「メールは兎も角、パスワードは駄目だろ、俺がなんかしたらどうすんだよ」
「しないだろ?」
 手を止めて、ジャンがきょとんとした面持ちでフロックを見る。
「しねぇけど……、忘れない人間の誕生日はありとしても、人に教えるとか以ての外だぞ」
「お前だからだってば、結構、根は真面目だろ?忘れたらお前に訊けばいいし、それに、俺、お前の誕生日知らねぇし。ケーキでも作ってやっからさ」
 ケーキで懐柔されると思うなよ。
 いつでも俺が食い物に釣られると思いやがって。
「十月八日……。あとはアドレスから俺の名前は抜いとけ。そうすりゃただの蛙好きの馬鹿だ」
「一言多いな。分かった分かった。抜いとくよ」
 一つ一つ質問しながらジャンが必要項目に入力していき、一時間ほどしてやっと設定が終わった。ずっと膝立ちだったため、痛くなった膝を摩りながら固まった体を解す。
「誕生日近いな。ケーキ何がいい?イチゴと生クリームたっぷりの奴か?あ、茶も出してなかったな。ミルクムースあるからコーヒー淹れてやるよ」
 してやったりと言いたげなジャンの顔が非常に煩い。
「さっきのカードもう一回見せろ」
「なんで?」
「俺ばっかり教えたら不公平だろ」
 特にケーキが欲しい訳でもなかったが、ただの隣人ではなく、フロック自身を知りたがってくれている喜びが仄かに込み上げて、まんまと乗ってしまった自分が悔しいだけの八つ当たり。
 だが、見慣れたコーヒーメーカーに粉を入れていたジャンは気分を害した風もなく、一度はポケットに仕舞ったカードをフロックに手渡す。
 誕生日は四月の七日。そして、じっくりと眺めて気が付いた。
「お前、俺と同じ歳かよ」
「そうなのか?」
「あぁ」
 自分の学生証を鞄から取り出し、見比べる。
「一応、同じ学年になるな……」
 指折り数えて計算してみたが間違いなかった。
 フロックは可笑しな気分だった。同じ歳の人間が、当たり前に子供として成長してきた己には想像もつかないような全く別の世界で生きている。
「そっかー、じゃあ、もしかしたら、お前と仲良く大学に通ってる未来もあったかもな」
 湧いたお湯をコーヒーの粉にゆっくりとかけながら、さして興味もなさげにジャンが言う。話のネタとしては申し分ないが、たらればを話した所で、今が変わる訳でもないからだ。
 歩み寄ったかと思えば薄く踏み込めない壁を作る。硝子越しにお互いを眺めている気分になるのだ。そんな瞬間にもどかしさが募る。
「コーヒー置いとくぞ」
 香ばしい香りを拡散しながら目の前に置かれたのは蛙が乗ったマグカップ。
 茶色い円筒形のカップの淵に、陶器で出来た緑色の蛙がちょこんと手を引っ掻けて乗っており、まん丸の黒い目でフロックを見詰めていた。
「可愛いだろそれ。お前用のカップなかったしな。解り易いし」
「さっきから、何で蛙チョイスなんだよ!つかよ、餓鬼の頃のあだ名だから嫌なんだけど⁉」
「へぇ、そうなのか?蛙可愛いと思うけどな」
「響きが似てるからって、ずっと揶揄われてたんだよ」
 口を窄めて湯気を吹き飛ばし、コーヒーを啜る。相変わらず美味いが、気にしているせいか嫌に蛙と目線が合う。両生類と睨み合いながら喉を潤した経験は初めてだった。
 フロックが不機嫌になっても、ジャンは楽しそうに目を細め、抹茶クリームで飾られたミルクムースを目の前に置いた。毎度ながら手作りだ。
 透明の硝子の器に白と緑の鮮やかな色の対比。やや甘めのミルクムースに、抹茶の風味と苦みが濃い目に出ているが滑らかなクリーム。フロックの好みの味だったため、無言で食べきってしまった。
「美味かった」
 蛙による不機嫌も少しばかり回復し、見ないようにしながらコーヒーを一口飲む。
「お粗末様」
 食べ終えた器を当然のように片付け出すジャンに、今日の事を伝えるべきか迷う。『お前の飼い主がごたごたしているようだぞ』。だが、一介の愛人に、これを伝えて何の対策が打てる。
 一気に半分以上コーヒーを飲み干し、炊事場に立つジャンの背中を眺めた。然程付き合いが長いとは言い難いが、頭は決して悪くない方だろう。しかし、狡知に長けているとは言い難い。寧ろ、正直過ぎて悪巧みをしても軽く看破されてしまう人間だとフロックは感じている。
 あのような暴力男を助ける必要性も感じていない。沈黙は金とも言う。『言わない』に、可決しかけた際に、一つだけ気がかりが湧いた。万が一、例の市議が失脚なりして、囲う事が出来なくなったらジャンはどうするのか。と、言う点だ。
「あのよ……」
「うん?」
 難しい顔をしたまま、俯いていたフロックが喋り出すまで、自らも椅子につき、コーヒーを飲みつつ、買ったばかりのスマートフォンを弄り回していたジャンが言い辛そうに口籠もるロックを促す。
「万が一、この家から出て行かないといけなくなったりしたらどうするとか考えてるのか?当てないんだよな?」
「ずっと飼っといて貰えるとは思ってねぇから、少しずつ独り立ちの準備はしてるよ。下が役に立たなくなっても、サンドバッグとしての需要は残ってるかも知れねぇけどな」
 冗談だと解り易くけたけたと笑い、ふ。と息を吐くと困ったように笑う。
「んー、そうだなぁ。適当に住み込みで働けるような所探すしかないんだろうけど……、あ、そうだ。お前の愛人にでもなろうかな」
 同じ笑いであるにも関わらず、諦め、儚く、皮肉気に、口角だけを上げた作り笑い。短い言葉の合間に、人間の表情はこんなにも良く動くものなのかと感心してしまうほど、ジャンは様々な表情を作る。
「別に愛人になってもいいけど、養う甲斐性は俺に求めるなよ」
「あれ、転がり込むのはいいのか?」
 拒否せずに、受け入れたフロックにジャンが驚いて見せ、養えないのなら愛人ではなく、同居人だ。と、言う言い換えは思いつかなかった振りをして、くつくつと笑うジャンをフロックはただ眺める。
「別に、知らない仲じゃないんだし、頼りたかったら頼っていいぞ。いつでも……」
「フロック、お前って結構、甘いんだな。もっとドライな奴かと思ってたわ」
 残っていたコーヒーを飲み干して、ふん。と、鼻を鳴らす。
「飯食わせて貰ったりしてるからな」
「餌付けしちまってたか」
「これからもしてくれていいぞ」
「そうか?じゃあ、今度は何食べたい?」
 柔らかく目を細め、ジャンはフロックに問いかける。
 宜しくない関係の人間が外部に居ると他人に知れたからには、何か対策を打ってくるだろう。とは馬鹿でも思いつく。心地好い声に耳を傾け、今だけの穏やかな時間を堪能した。

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