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馬房

小説は妄想と捏造甚だしい。 原作のネタばれ、都合の良い解釈。 R18、グロ(精神的にも)、暴力表現などが含まれます。 冒頭にざっと注意を書いてありますので、それを読んだ上での 閲覧を宜しくお願い致します。何かあればご連絡いただければ幸いです。 基本的に右ジャンしか書きません。 萌が斜め上です。無駄にシリアスバイオレンス脳です。 拙い文章ですが、少しでもお楽しみ戴ければ嬉しく思います。 右ジャン、ジャン総受けしか書きません。あしからず。

飼われる男と一般人=その四=

飼われる男と一般人の続き





 ジャンの口元に貼られた絆創膏を見て、フロックは不機嫌に顔を歪める。
 懸命に否定に重ね、曖昧だった。否。無理矢理、曖昧にさせていた恋心をはっきりと自覚してから、ジャンが怪我をしている事がより腹立たしくて仕方がないのだ。
「今日もご機嫌斜めだな。今日はお子様も大好きなカレーだから喜べよ」
 ジャン自身は、いつも通り笑っている。
 あの暴力男にも、同じ笑みを向けているのだと思えば悋気が湧いた。片思い、たかが隣人の分際だと自覚しながらも。
 ジャンも、フロックを巻き込みたくはないらしく、単純な知らない事への質問はしてくるが、相談などはしてこない。それが酷く切ない。
「スマホってすげぇな、レシピとかも検索したら一杯出てくるし」
 最初は慣れない操作で変な事になった!だとか騒いでいたのだが、二か月も経つと相応に使いこなせるようになり、興味のあるものを片っ端から検索しているようだ。
 今日のカレーも、ルウを使わず、料理サイトで調べたスパイスから作るレシピで作ったものだと自慢していた。
「お前は食わねぇの?」
「口の中痛いから遠慮しておく」
「口の中だけか?」
 以前のように、腹を殴られた痛みで食べられないのではないか。そう水を向けると笑って流された。
「美味かった。ごっそさん」
 答える気がなさそうな気配を察してカレー皿を空にし、フロックは手近にあったティッシュで口を拭く。
「何か言いたそうだなぁ?」
 無言でフロックがジャンを見詰めていれば、皿を片付けながら苦笑する。
「愛してるのか?あいつの事」
 だから何をされようとも黙って耐えるのか。愛玩動物を愛でるように、隣人に餌を与えて心を慰めながらの生活。どんな気持ちで過ごしているのか、フロックには想像もつかないが故に問うてみる。
「愛、ねぇ……」
 ジャンは口籠り、皿を洗いながら考え込んでいる。今まで、考えた事すらなかったのかも知れない。
「愛って、どんなもんだろうなぁ、言葉にしようとすると難しいな」
 一言に愛と言っても形はそれぞれ。検事を目指しているマルロと食事を共にした際に語られる判例には、常人には理解し難いながらも当人には確かに相手への募る想いがあり、歪んではいても『愛情』ではあるのでは。と、感じるものもあった。与えられる本人が受け入れるかどうかは別にしろ。
 相手の暴虐を許容し、受け入れ、耐えるのも愛故なのか。
「大事に想ってるかと言えば、そうかもな。こんな俺を拾ってくれた人だし、お陰で生活に不自由はしてないんだから。あのままだったら、輪姦された挙句に殺されたり、碌でもない連中に捕まって性病貰ってぼろぼろになったり、薬中にでもなって野垂れ死んでた知れねぇし」
 更なる不幸に見舞われないために耐えるのか。
 出会った人間の中で、あれが一番『マシ』だったから。ともいつか聞いた記憶を思い返しながら、出して貰ったお茶を啜るが、仄かに甘く、柔らかな香りのミルクティーも、今のフロックの心を落ち着けてはくれない。
 お前はどうしたい。
 俺の方が『マシ』じゃないか?
 甲斐性はないだろうが、少なくとも大事には出来る。
 喉元まで込み上げては呑み込む言葉。
 ジャンが今の状況に甘んじていたいと願うならば、結局は何も言えないのだ。手を伸ばした所で、向こうから掴んでくれなければ空振りするのみ。考えが読めるようで読めない。
 ジャンの心境、考えを推し量った所で所詮は他人。お前の事は俺が一番わかっているなどとは傲慢にもほどがあり、どこまで行ってもフロックの独り善がりな想像でしかない。
「今日はいつにも増して変だな?嫌な事でもあったか?またお客さんに吐かれたとか?」
「バイトは最近平和。別の所が平和じゃない」
 つい最近、アルバイト中に客が自力で立てないほど酩酊し、具合が悪いとの申告があった。仲間は酔っぱらって騒ぐばかりで役立たず。仕方なしにフロックがビニール袋を片手に介抱していると、胃の内容物を袋ではなく服に思い切り吐きかけられると言う最悪な経験をした。
 出来る限り拭きはしたが、汚物が染み込んだ服で接客して嫌な顔をされ、電車では他人から遠巻きに睨まれ、自宅に着いた頃には叫んで暴れ回りたいほどの心労が溜まっていた。
 そんな、いつかの愚痴をジャンは思い出したのか、弱音を吐き出すためのきっかけをくれた。自分は滅多に言わない癖に。最初の頃にぽつりと漏らしたのは、溜め込んでいたものが許容量を超え、溢れ出したが故だろうか。
「学校か?」
 ジャンは自らもミルクティーを入れ、音を立てないように口をつける。
「ん、まぁ……」
 お前の事で俺の気持ちが穏やかじゃない。
 やはり、込み上げた言葉を呑み込んで、適当に誤魔化す。
「話して自分の中で整理がつく事もあるだろうし、ま、聞くだけで良けりゃ幾らでも言えよ。幸い、言い振らす相手も居ないしな」
「……好きな人が出来た。でも、そいつは人のもんで、俺にはどうしようもない」
「そりゃまた、辛い恋してるなぁ」
 ありきたりな感想をジャンが口にする。自分の事だとは微塵も思っていなさそうな困り顔がまた憎たらしい。
「そうだな。ほんと、そいつ鈍いから関係が拗れないで助かってるけど……、彼氏と居ても幸せそうに見えないから、余計もやもやする」
「そっかぁ。知り合いだと人間関係もあるから気も使うだろうしな。幸せってのは本人の尺度によって違うし、他人からは一概には言えねぇけど、彼女が独りぼっちになって辛そうな時は手を差し伸べてやったらいいんじゃねぇかな?お前、男前だし、優しいから握り返してくれるよ」
 お調子者や、捻くれ者とは言われても、優しいと評されたのは初めてだった。
 自身を重ねての助言なのか、湾曲に伝えてくるそうして欲しいとの願いなのか、フロックがじっと探るように見詰めていれば、ジャンはいつも通り困ったように眉を下げた。
「甘いもんでもやるから元気出せよ」
「お前、食わせりゃ機嫌が良くなると思ってんだろ……」
「実際、直ってるだろ?来た時より顔色もいいし」
 ジャンが得意げな面持ちで、小さなホールケーキを出してきた。直径六センチほどか。上には赤いジャムがかけられており、色鮮やかで眼も楽しませてくれる一品に仕上がっている。
「今までちっこいのしか作った事なかったからな。ホールケーキ練習中。本番は二十センチくらいの作ってやるよ」
 本番。フロックの誕生日を示唆しながらフォークを手渡す。
「そんなに食えねぇよ」
 ケーキを口に運ぶ。
 しっとりと柔らかく、口の中で解けていく生地。仄かの洋酒の香りがする甘いクリームに、甘酸っぱい苺ジャムのアクセントが加わり、カレーを平らげた後でも足りなく感じるほどだった。
「ほら、直った」
「うっせ」
 夢中でケーキを頬張り、食べ尽くしたフロックに、ジャンが頬杖を突きながら、楽しそうに笑う。正にしてやったりと言う表情。悔しいが顔が緩む。
 くすぐったい雰囲気にぴこん。と、古い方の携帯電話が鳴り、ジャンの表情が曇る。
「あいつから?」
「今から来るってさ」
 残っていたミルクティーを飲み干し、フロックは椅子から立ち上がる。
 またな。と、言いながら見送るジャンを未練がましく振り返りながら、自室に戻れば苛立ちを表すように舌打ちをした。
 一か月以上、音沙汰がなかったにも関わらず、ここ数日であの男の訪問回数が増えた。あの男が部屋に来ると言う事は、必然的にジャンは暴力を受けながら抱かれるのだ。想い人が他の男に抱かれて喜ぶ趣味はフロックにはない。無力感に苛まれ、同時に悔しさばかりが募っていく。
 口の中に残るケーキの甘味が咥内に纏わりつき、美味しかったはずのものが粘土でも食べた後のような不快感がこびりついて水を飲んでも取れず、嫌悪や焦燥感がぎりぎりと胸を締め付け、不快感が募っていく。
 フロックは大きく溜息を吐き、椅子に乱暴に座ると壁をまんじりともせずに睨み続ける。
 考えているのはピュレと言う記者の事だ。ピュレの聞き取り調査のせいなのか、実しやかに囁かれていた浮気の疑惑を仄めかせた記事が、先々月の頭にゴシップ雑誌に載っている事を知った。
 今まで一度として手にした事がない俗なゴシップ雑誌を購入し、じっくり自宅で確認すれば、『疑惑』は『疑惑』。このマンションへ入っていく写真が一枚あるだけで、決定的な写真ではなく、浮気相手すら判明していなかった。もしや、ピュレが若輩者の自身の意見を『一考の余地あり』と、受け取ってくれたのか。と、奇妙な感動すらしていた。
 何にせよ、ジャンが大衆の好奇の生贄として吊し上げられ、生活を脅かされずに済んだ事は素直に喜ばしい。ただし、マスコミに下らない質問をされれば、堪った苛立ちを、あの男がジャンにぶつけるであろう事は想像に容易かった。
 何が出来るでもないが、せめて最悪の事態を防ぐために様子を見に行こうと訪問頻度を上げている最中の出来事だった。
 例の男は、自分を売り込む活動に積極的で、様々な媒体に顔出しをしていたとあって、疑惑を放置せずに突く者も居た。が、狸はどこまでも狸。化けるのが上手いのだ。寧ろ疑惑を逆手に取り、自分が如何に愛妻家であるか、真摯に政治活動に身を捧げているかを語って見せ、浮気疑惑をにこやかに『根も葉もない噂』と一蹴し、好感度を稼いでいた。
 だが、そこに降って湧いたように、政治家にありがちな、しかし、あってはならない『黒い疑惑』と称した、『宜しくはない人間関係』が証拠写真と、詳しく調べ上げたのであろう記事が共に世間に向けて発表された。
 たかが一市議の仕様もない疑惑から、話題は一気に不穏な方向へ移り変わっていく。先に浮気疑惑で注目を浴び、自己の善人ぶり訴えていた分、後に発表された『黒い疑惑』は余計に世間をざわつかせたのだ。どうせこのまま知らぬ存ぜぬを通し、何食わぬ顔で市議の席に居座り続けるのだろうと考えていたフロックは、思わぬ展開に驚いたものだ。
 フロックが思っていた以上に、ピュレは『出来る男』だったようだ。
 浮気問題の小さな記事から派生した疑惑は瞬く間に燃え上がり、公金の使い込み、暴力組織への献金疑惑や、権力を行使しての取り計らい等々。明るみに出始めれば謎の関係者とやらが次から次へと暴露を始め、釈明や揉み消しに奔走し続けているせいか、時折テレビに映る男は元々の男ぶりが嘘のようにやつれ、痩せたようにも見えた。
 元々、身内からの評判は良くない男だったのか、不祥事が起こった途端に周囲は掌を返し始め、知らぬ存ぜぬばかりならまだしも、我も我もと批判をし出したのだから面白い。マスコミも視聴率が取れるのか、そればかりを放送し、あの男は一躍、時の人となっている。
 切っ掛けは些細な種火だが、そこに油を注がれ、ここまで延焼しては、最早、個人の力ではどうにもなるまい。頼る当てのない少年を囲い、暴虐を繰り返してきた下衆な男には相応しい末路ではないだろうか。
 自身の力で何も出来なかったのは無念ではあれど。
 早く辞職でもして、どこぞへと逃亡でも何でもしてしまえば良い。お前の跡は継いでやる。
 苛々する気持ちを抑えながら机に突っ伏してだらけていれば、突如響いた甲高い破壊音。椅子が倒れるのも気にせずに立ち上がり、音がした方向を凝視する。
 硝子が割れたような音の発生源がジャンの部屋からである事は間違いなかった。だが、このマンションはたかがコップの一つ二つを割った程度で音が伝わるような壁の薄さではない。尋常ではない気配を察しながら、バルコニーに飛び出て身を乗り出して隣、ジャンの寝室を覗き込む。
 バルコニーの硝子戸に嵌っていた硝子が割れ、中には倒れているジャンの姿。背中から赤いものが流れているようにも見え、全身が総毛立つ。
「下らん事をべらべら喋ったのはお前だろう⁉今まで飼ってやっていた恩を忘れたかっ!」
 割れた硝子の隙間から聞こえる声。ジャンの前に立っているのは、当然ながら飼い主であるあの男。相当、激高しているようで、覗き見ているフロックには気づいていない。喚いては小さく丸めた細い体を蹴りつけ、腕で庇っている頭を踏みにじる様子に、目の前が真っ赤になる。
 浅くなる呼吸と、重く響く鼓動。大きく息を吸い、災害用に破れるようになっている壁を叩き割って隣へと侵入する。
「てめぇっ!」
 自らを奮い立たせるために、恐怖で蓋をされ、詰まりそうになる言葉を勢い良く吐いて、割れた硝子を踏みながら引き戸になっている硝子戸に手をかければ、フロックを歓迎するように窓は容易く開く。三階に位置するこの部屋で、面倒だからと家に居る間は鍵を閉めないジャンのずぼらさが幸いした。
 闖入者に意表を突かれ、動揺したのか男が硬直した隙を狙い、体当たりで突き飛ばし、ジャンに向き直れば、顔には痛々しい痣が出来、割れた硝子で背中や腕に傷がついたのか、服に滲むほどに血を流していた。
「おい、ジャン、しっかりしろ」
 ぐったりと横たわるジャンに声をかけ、傷に触らないようにしながら意識の確認をする。薄らと開いた眼、ほっと安堵したのも束の間、それが見開かれ、口から言葉が出る前にフロックが硬い衝撃に吹き飛ばされ、床に転がる。
 二の腕と側頭部に走った強い衝撃に、くらりと意識が揺らぐ。顔を顰め、背後を顧みれば簡素なサイドテーブルの天板を手に持って、再度振り翳す男の姿。
 ぐ。と、フロックは奥歯を噛み締め、床を蹴って全身で飛びかかる。サイドテーブルを振り上げて、不安定になっていた体制は突進によって崩れ、男の体が派手な音を立てて倒れた。
 直ぐ様、フロックはジャンを半ば引き摺りながら自室へと逃げ込む。靴下を履いているとは言え、割れた硝子は足の裏を傷つけたが気にする余裕は皆無だった。
 今は物置になっている元寝室を通り抜け、木製の頼りない扉を閉め、椅子の背凭れの上部を取っ手に挟みこんで心張り棒代わりにし、扉が開かないように固定するが、飽くまでも一時的なもの。力任せに押せば容易く外れる鍵の替わりにもならないその場しのぎでしかなく、息も吐けはしない。
 激しく扉を殴りつける音と怒声が響き、いよいよ緊張が最高潮に達する。ジャンを抱きかかえるなり、引き摺ってでも外へ逃げるべきか、だが、外に出てどこに身を隠す。フロックは逡巡し、扉の向こう側では体当たりで強引に押し開こうとしている音に、椅子が今にも外れそうになる様を見て戦慄する。
 椅子と扉がどれほど耐えてくれるものか。迷っている余裕はない。兎に角、外へ。と、焦りながらジャンを顧みれば、血だまりに倒れ、その手元にはどこかに繋がっているフロックのスマートフォンが光っていた。
 ぼそぼそと声が聞こえ、飛びつくように手に取り、耳に当てれば懸命に『返事をして下さい!』『聞こえますか⁉』と、話しかける男性の声がする。
「こ、ころされっ……!頼むっ」
 ひたすら危機的状況に在る事を伝えていけば、落ち着くように言われたが、落ち着ける訳もなく助けを求めた。そのせいばかりではないだろうが、直ぐに玄関の方から別の声がして、警察の制服を着た人間が複数人飛び込んでくる。
 血まみれで気を失っているジャンに声をかける者。ほぼ腰を抜かしていると言っても良いフロックを庇うように前に立つ者。そして、『俺を誰だと思ってるんだ』そんな喚き声と、争う音が扉の向こう側から聞こえ、助かったのだと理解した。
 フロックは警察に助け起こされながら状況の説明を求められ、血を流して気を失っているジャンは直ぐに病院に運ばれた。
 状況の説明を終えると、フロックも頭から血を流していたため同じ病院へ向かう事になり、検査の結果、頭は小さな裂傷のみであったが、上腕の骨にひびが入っていたようで、腕をギプスで固められ、包帯を体に巻き付けた状態で固定された。実に息苦しくて仕方がないが、それよりもずきずきと腕が酷く痛み、熱を持ってフロックは喘いだ。微かに動かすだけでも酷い痛みに襲われる。
 経緯を聞いた医者が言うには、殴られてひびが入ってからも無理に動かしたせいで、余計に痛めたのだろうとの事だった。
 人間、極限状態になると異様に力が湧いたり、アドレナリンが過剰分泌され、痛みを感じなくなると聞いた事はあれど、実際に体験するとは思いもよらず、痛みに辟易しつつも生命の神秘に感動していた。
 フロックとジャンは事件の被害者である事と、頭を打っているために様子見。と、言う名目で同じ病室に並べられ、一緒に沈痛と炎症を抑える薬が入った点滴を受けていた。
 横目でジャンを見れば、寝息を立てて眠っている。血を流して倒れている姿を見た時はどうなる事かと思ったが、どうにか生還したようだ。
 フロックは視線を天井に移し、明日を愁いつつも眼を閉じた。
 明日から確実に面倒事が大量に舞い込んでくる。
 今はなにも考えず、泥濘に沈み込むような眠りが欲しかったのだ。
 〇●〇●〇
 翌日、フロックは朝から事情聴取をジャンとは別室で受ける事になった。
 説明と言っても、ただ、硝子が割れる音がして、驚いて覗き込んだら隣人が殺されかねない目に遭っていた。だから助けようと飛び込んだ。としか言えなかったのだが。
 ジャンとの関係性を訊かれれば、フロックは友人と答え、ある程度の聴取が終わった。飽くまで隣人。当事者ではない。家宅不法侵入に関しても、人命救助のためとあって不問とされ、先ずは通報しなさい。との厳重注意されただけで済んだ。
 病室に戻ろうとしても、当事者であるジャンの事情聴取が長引いているようで入れず、結局、別室で朝食と、午前の診察を受けた。
 医者から退院許可が出れば現場検証と中々忙しい。ジャンの血が染みついた床に昨晩の生々しさを感じ、歩く度に傷付いた足裏がちくちくと痛む。
 何度も同じ説明をしながら行動を再現させられ、面倒ではあったが、近い将来にこれと同じ事をする立場になるのかと思えば勉強の一端とも感じられて、日が暮れるまでフロックは頑張ったのだった。
 警察が自宅と、ジャンの家から引き揚げた後、ベッドに横になれば一気に激しい疲労に襲われ、動くのも億劫だった。片手ではスマートフォンの充電をするだけでも一苦労だ。
 電源を入れれば大学の友人や、アルバイト先の先輩からのメールや着信が幾つも来ていた。利き手である右腕を動かせないため、左手で操作するが、これがどうにもやり辛く、画面の鍵を外すのも一苦労。『緊急通報』と書かれた文字をタップして番号入力画面を何度か出してしまい、無駄に焦りつつ解除し、返って来た返信にすら時間がかかる。
 急に音信不通になった言い訳として『階段から転げ落ちて、腕にひびが入ってしまい、頭も打っていたため、今まで念のために入院していた』とだけ嘘を交えて伝えた。
 自宅周辺にもマスメディアの人間と思しき人間が彷徨ついているため、知人や友人相手でも迂闊な言動をするべきではないと考えたからだ。
 警察は教えてくれないものの、行動が迅速であったのは、ジャンからの通報だけでなく、他住民からの通報もあったからではないかとフロックは考えている。
 被害者でこそあるが、悪目立ちをしたフロックのみならず、特にジャンは住み辛くなるだろう。
 何故なら、刺激と娯楽に飢えた人間は残酷だからだ。在りもしない憶測を混ぜ、自らが見聞きした虚実の混じりの噂を流すは想像に容易い。他者とほぼ交流がなく、私生活も人となりも不明なジャンは格好の餌食になる。
 必要な連絡を済ませ、ベッドに身を投げ出しながらフロックは悩みに悩む。
 手を差し出して、取って貰えるのか。
 〇●〇●〇
 時間は昼過ぎ。
 学校から帰って自宅で寛いでいればジャンから帰ってきているとの連絡があり、フロックは隣室へと赴く。
「退院早くねぇか?」
 室内を見渡しながらフロックがジャンへ問いかける。
 あれ以来の来訪になるジャンの自宅は所々に薄っすらと埃が積もっており、ダイニングとバルコニーを繋ぐ硝子戸も割れたままで硝子の欠片や血の跡だけ掃除されていた。机の上は一応拭かれているが、椅子までは気が回っていないようで、手で軽く払ってから座る。
「寝てばっかりでもつまんねぇし、無駄に金かかるだろ?」
 紅茶を淹れながら、返事を返すジャンは、以前と変わらないように見える。
 事件から一週間、まだ周囲はざわついて無関心とはいかないものの、皆、日常に戻り出した頃合いでもある。フロックの腕も未だじくじくと痛み、下半身はどうにか洗えても、上半身は拭く程度で髪も良くは洗えない状態だ。
 暴行の打撲に、硝子による裂傷。肋骨にもひびと、より重症であったジャンが完治しているはずもない。
 更に言えば、
「怪我増えてねぇか?」
 一昨日、フロックがジャンの見舞いに行った際にはなかったはずの湿布が右の頬に追加されていた。
「昨日、あの人の奥さんが来て、ぶん殴られた。お前のせいだってさ……、ここも引き払うし、慰謝料請求してやるから覚悟しろって、おっかねぇなぁ。まぁ、暴行の現行犯で警察に引き摺られてったけど」
 自分の旦那がしてきた事を棚に上げて、被害者を罵れるとは恐ろしい女だ。つい最近、テレビで見た際は、深々と頭を下げ、『世間様に申し訳ない。被害者の方にも謝りたい』と、殊勝な弁を延べていたにも関わらず、心の中ではジャンへの怨嗟が渦巻いていたのか。実際、お似合いの化け狸な夫婦だったのだろう。
「じゃあ、お前住むとこなくなるんだな?」
「そうなるなー。また家無し児かぁ。暫く路上生活でもしてみっかな。はは……ぅ……」
「痛いなら無理すんなよ」
 時折、痛みに顔を顰め、体を庇いながら故に、ジャンの動きは緩慢だ。片手とは言え、自由はフロックの方が利く。お茶も俺が淹れる。とは言ったのだが、ジャンは譲らなかった。
 先の発言にしても、誰かから聞いた、怪我をした動物が癒えるまで身を隠すように、ふらっとどこかへ消えるつもりなのか。
「じゃあ、俺んとこくれば。ここはあのおっさん名義だろうけど、俺んちは俺が許可すればいい。ついでにここに合い鍵もある」
 フロックは、肩掛けの鞄の中から鍵を出し、纏めて付けっぱなしにしていた鍵を一つ外してジャンの眼の前に掲げて見せる。
「今日からでも可」
「まじで言ってんのか?」
「冗談でこんな真似出来るほど俺は聖人じゃねぇ」
 さっさと受け取れとばかりに鍵を揺らし、再度、突きつけるが、ジャンは手は上げてはいても、鍵を見詰めるばかりで掴めずにいる。
「少なくとも、俺はあいつより『マシ』だぞ」
 フロックがジャンの手の中に鍵をねじ込み握らせる。やっと言えた言葉に心臓の動きが活発になり、全身が熱くなり、出されたお茶を煽ると逃げるように自室に帰って行った。
 夕方にはアルバイトに行き、偶に横柄な客にむかっ腹を立て、不自由ながらもどうにか仕事をこなしていく。
 夜に帰宅すれば、例の男の弁護人とやらが来て、示談のための交渉を持ちかけられた。傷害や暴行の現行犯なのに?とは思ったが、逮捕はされても実刑を受けるかは別なようだ。罪を犯しても、逮捕されても裁判で罪が確定するまでは『容疑者』。懲役、または幾らかの罰金。確かに良く聞く。そして被害者は示談金で黙らせてしまえば前科はつかない。地獄の沙汰も金次第とは正にこの事か。
 流石に、人前に出る仕事はもう無理だろうが、例の宜しくない人間関係を使っての報復はないか、こんな大事に巻き込まれて、就職に難が出ないかの不安もあった。
 警察は、就職するにあたって、身内の犯罪歴や、自身の過去に厳しいとも聞く。働いている間はやる事で頭が一杯になり、何も考えずに済むが、帰り道で一人になると、もやもやと湧いてくる思考。
 大学でもぼうっとして勉強にも身が入らない。
 学校からアルバイト先へと直行し、働いてから力なく歩いて帰りつけば、玄関扉に差した鍵が閉まる。出る際に閉め忘れたか?あるいは。湧いた期待に沈んていた気持ちが浮上した。人間とは現金なものだ。
 浮かれた気分を悟られないように、平素通りに靴を静かに脱ぎ、後ろ手に鍵を閉めながら部屋に上がる。ダイニングに入れば、キッチンの直ぐ側に置いたベッドでジャンが横になって眠っていた。コンロの上には鍋が置いてあり、床には大きな紙袋やキャリーケースに入った荷物が所狭しと置いてあった。
 痛む体で良く持ってこれたな。と、感心しながら足音を立てないように荷物を避け、コンロに向かう。鍋の中には大きな塊のままの野菜が入ったポトフのようで、作られてまだ時間が経っていないのか、温かさの残る匂いを嗅ぐと腹が鳴った。
「あ、悪い、寝てた」
「体いてぇだろ。寝とけよ」
 寝惚けながらフロックを見上げるジャンを、素っ気なくあしらいつつも足元はそわそわと落ち着きがない。
 洗い籠に置いてある器を手に取り、野菜とソーセージをよそい、琥珀色のスープを流し込む。
「お前も食うか?」
「食べる」
 短い問答で、もう一つの器を手に取って同じように中身を移すと食卓の上に置いた。動作が鈍いジャンが椅子に座った頃に匙を渡し、一緒に夜食を取る。
「随分色々持ってきたな」
「普段から使ってるもんとかな。冷蔵庫とかは無理だけど、オーブンレンジも頑張って持ってきた」
 ジャンが指差す方向を見れば、確かに荷物に埋もれて良く菓子作りに活躍していた多機能なオーブンレンジが床に置いてあり、その周辺にはコーヒーメーカーに、茶葉、コーヒーの粉、調味料各種、他にも私生活で使っていたらしい細々としたものが散乱している。
「案外、ちゃっかりしてんな。ほぼ身一つで来るかと思ってたぜ」
「する事はしてたし、あの人を相応に満足させてたんだから少しくらいいかな?ってな。奥さんも出て行け。とは、言ってたけど、中の物を持っていくな。とは言わなかったし」
 屁理屈である。
 しかし、これらはジャンにとっての慰謝料替わり。とも言える。今まで散々暴行と強姦じみた性行為を許容してきたのだ。これくらいは罰は当たるまいとの気持ちも理解出来、フロックの思考は、持ち込まれた物を、どこに何を置くかに移り始める。
「一人でしなくても、俺が帰ってくるまで待っときゃ良かったのに。片手でもお前よか動けるぜ」
「……今度から頼もうかな」
 ぶっきら棒ではあるが、フロックの慮る言葉に、はにかむようにジャンが笑い、初めて頼るような発言をした。くすぐったい気持ちになりながら、左手でぎこちなくポトフを口に入れる。
「腕大変そうだな」
「まぁな。ノートも取れねぇからスマホで講義録音したり、コピー貰ったり……、それとトイレとか、風呂がな。頭も洗えなくて気持ち悪い」
「洗えてないのか?」
「包帯をほどいたら直せねぇからな。濡れたら嫌だし。洗って下半身。早く治したくて牛乳ばっか飲んでる」
「そっか、じゃあ後で洗ってやるよ。包帯も巻き直せるから安心しろ」
 大きいじゃが芋が匙から逃げ回り、フロックがすくうのに苦戦している際に、ジャンからの発言に一瞬だけ動揺し、皿の外に逃がしてしまった。
 机の上に転がったじゃが芋を摘まんで口に入れる。先程まで回っていた口は途端に静まり、無為にポトフを注いだ皿ばかりを眺める。
 動揺するフロックとは対照的に、ジャンはゆっくりとした動作で食を進め、先に食べ終わって台所の洗い場に食器を置き、荷物の中からタオルや石鹸を取り出している。
「一緒に入るのか……?」
 ようやっとフロックが絞り出した一言に、ジャンが振り返り、当然だろ?と言う。
「腕きついなら食べさせてやろうか?」
「お前も怪我してんだろ」
「痛いけど、我慢出来なくはねぇよ」
 慣れてるからか。ジャンを責めるような言葉が出かけて飲み込む。暴力や侮辱を受ける行為に慣れるなどの状況が異常なのだ。ポトフは美味しいはずが、胸がむかむかと苛ついてくる。
「大丈夫。入れるなら先に入れよ。食ったもん片づけとくから」
「分かった。のんびり食ってていいぞ。まだ一杯あるから、腹一杯食っとけよ」
 相変わらずの母親の如き発言をしながらジャンは服を持って浴室に向かい、程なくしてシャワーが流れる音がしてくると、いよいよ胸がざわつき、皿の中にあるポトフも進まなくなった。
 殆ど噛まずに呑むようにして平らげ、左手のみで気を紛らわすように食器を洗う。まだ好意すら伝えていない。ジャンも次が見つかるまでの仮宿程度にしか考えていない可能性もある。
 風呂を共にするのも、ただの善意だ。深読みするな。
 自分に言い聞かせながらも、そこはかとない期待をしていしまうのは男心だろうか。浴室から出て来たジャンがフロックを呼び、ボクサーパンツを身に付けただけの格好で待っていた。
 痛々しい痣と傷の残る体を見て、細やかな興奮は途端にどこかへと家出した。
「あー、見苦しくて悪いけど、服濡れるしな」
 体をじっと見たまま黙り込んだフロックを見て、ジャンが気恥ずかしそうにやや見当違いの発言をする。
「そうじゃなくて、本当に動けるのが不思議なくらいだなと……」
 胸の部分はコルセットが巻かれてあるため見えないが、体の至る箇所に殴る蹴る、絞めるなどの行為でついたのであろう痣が未だ青黒く残り、部分的に青から緑に推移していっている。
 縫合されている切り傷も蚯蚓腫れのように残り、確実に傷跡になってしまいそうだった。
「内臓とかは大丈夫だったのか?」
「幸いな。破裂はしてない。あまり重いものを食べないようにして安静にはしろって言われたけどな、痛みがあったら直ぐ連絡とか……、頑丈に生まれついて良かったよ」
 苦笑しながらジャンはフロックの服を脱がし、包帯を解いていく。
「ほら、頭抜くから万歳してしゃがめ」
 片腕では服の着脱も容易ではなく、右手は腕が通せずTシャツの中に収めたままだ。手伝い自体は助かりはするのだが、先程同様、物凄く子供扱いされている気がした。
「し、下はいい……」
「つっても脱がないと洗えないだろ?ほら、足上げろよ」
 腰のベルトを抜き、デニムパンツを下ろそうとするジャンを止めるが、あっけらかんと返され、フロックは恥ずかしがっている自分の方が可笑しいような気になってくる。
 協力しろと指示をされながら足を抜けば、直ぐに背中を押されて浴室へ。
「頭洗うから、下げとけよ」
 肩とギプスに固められた腕を覆うようにバスタオルをかけ、先ずは温めのシャワーで優しく洗い流し、次いで泡をつけて細い指が丁寧に頭を洗浄していく。
「美容室っぽい……」
「気持ちいいなら何よりだ」
 行った事はないが、印象だけでソープっぽい。と思ったのは言わなかった。
 頭を洗い終えれば、やはり丁寧に拭かれ、ジャンはタオルをフロックの頭とギプスに撒いた。
「右手は浴槽に置いとけ、上げとくのきついだろ」
 小さく返事をして、フロックは言われた通りに右腕を浴槽にかけ、背中を任せていれば、体を洗うためのスポンジを持ったジャンの手が、顎の下から前面に回ってくる。
「背中だけでいいって!」
「恥ずかしがるなよ。男同士なんだし、動かないんだから仕方ないだろ?遠慮すんなって」
 言っている間にも、ジャンは手を動かし、フロックの腕を洗っている。奉仕精神の塊か何かか。優し過ぎてくすぐったくもある動きに耐え、フロックは思わず心の中で褒めているのか貶しているのか判らない言葉を吐いて目を閉じる。
「そんなに恥ずかしいか?耳まで真っ赤」
 タオルから出ている耳に息を吹きかけられ、フロックは、思わずぎゃあ。などと叫んでしまい、ジャンまで驚いてしまう。
「もういい!後は自分で出来る!」
 完全に遊ばれているとしか思えない状況にフロックは喚き散らし、悪童のように笑っているジャンを威嚇するように腕を振り、浴室から追い出そうとする。
「分かった分かった。じゃあ、泡だけ流そうなー」
 フロックの体についた泡と、自分の足を流し、タオルが巻かれた頭を撫でてからジャンは出て行く。
 ちらりと自分の下腹部を見て、フロックは細く長い息を肺から絞り出して呻いた。そこには緩く勃ち上がり、存在を主張する男性器がある。最近、腕のせいで抜いていなかったとは言え、あんな接触程度で。
 そうは思えど、背中に添えられていた手や、洗ってくれる動きを思い出すと、ぞくぞくと身が震えた。
「くそ……」
 一言だけ毒吐き、左手でぎこちない手淫を施して体を落ち着け、吐き出した後は一気に虚しさに襲われながら体を流す。好きな奴に触られたら男なら仕方ないだろ。などと自分に言い訳もするが、気持ちは沈んだままだ。腕が動かなくて良かったとすらフロックは思う。
 健常であれば、まだ傷の残るジャンに、碌でもない事をしでかしていた可能性を考えているのだ。痛々しい傷の残る引き締まったしなやかな体を見て、奇妙な興奮を覚え、触れられて性器を勃たせた。鍵を渡したのは、近くに居たいとの純粋な想いだったはず。と、自分に失望していた。
 あの男と俺は違う。
 違う。抜いてなかったせいだ。
 それだけだ。
 自身の興奮を否定し、時間をかけて体を拭いていく。小さい箪笥から下着と寝巻を引っ張り出して少々水分の残る体に纏い、髪をドライヤーで乾かしていく。シャツは肩にかけただけで、髪のついでに体とギプスにも温風をかけ乾燥させていった。
 時間にしてどれくらいかは知れないが、脱衣所から出ればベッドの上で包帯を投げ出したままジャンが眠っていた。体もまだ回復し切っていないにもかかわらず動いて消耗し、疲れていたのだろう。眉間にも皺が寄り、寝苦しそうである。服は流石に着ていたが、下は足が剥き出しになった下着のままだ。
 ただ面倒だったのか、体が痛んで履けなかったのかまでは知れない。包帯を巻いて貰うのは諦め、ジャンの足元にあった布団をかけるとフロックは、そうっとベッドに忍び込み、背中を向けて緊張しながら眠った。
 〇●〇●〇
 もう関わりたくない、大事にしたくない思いから、あの男の弁護人を名乗る人間から提示された示談の条件。治療費の全額負担と、大学生には縁のない大金の受け入れはしたが、良かったのかどうなのか。
 実際に見てはいないが、慰謝料だのと喚いていた男の奥方や、ジャンへの補償はどうなっているのか気になって訊いても、弁護士は守秘義務とやらで決して教えてはくれない。
 しかし、弁護士はジャンを気に掛けるフロックへ、心配するな。と、だけは言ってくれた。人がいいのか、別の意図なのか、どこまで信用していいのかは不明だが、弁護士が提示した書類は難しくも、早く署名をしろと急かされる事もなく確認でき、質問にも一つ一つ丁寧に答えてくれたため、悪人ではなさそうだった。
 甘いと言われるかも知れないが。
 実際甘いのか。マルロからも、そんな夜中に訪問するような輩を信用するな。と、叱られ、ヒッチからも同様の言葉を受けた。そうは言っても昼間はハイエナのようなマスメディアの連中が未だたむろしていたため、寧ろ配慮だろうと考えたのだが、甘いのかどうか、自分では判らなかった。
 慌ただしい中で近所の視線が気になりつつも適当に躱し、勉強とアルバイトに明け暮れていれば平穏と言えば平穏そのもので病院へ通い、一か月と少しも経てばフロックのギプスも取れ、ジャンもコルセットを外して良いとの許可が下りた。
 アルバイトや、学校もあるため遠方は無理にしても、引っ越しも視野に入れながら、電車に揺られつつ転居先を探し、家に帰りつけばギプスが取れて軽くなった腕をフロックはジャンに見せた。
「うわー、気持ち悪いくらい細くなったなぁ」
 外して貰った際の清々しさを帰宅して直ぐジャンに報告していれば、中々酷い言葉が帰って来た。言わんとする事は解らないでもないのだが。
 一か月以上動かさなかった腕の筋肉は異様なほどに細くなり、まるで栄養失調で痩せこけた人間の腕のようだったからだ。
「ギプス割った時の垢とかやばかったぞ」
 病院の洗い場を借りて流した垢の凄さを語れば、心底、嫌そうなジャンの声。
「まぁ、ずっと痒いつってたもんな。取れて良かったじゃねぇか」
「マジで今日取って貰えないなら自分でのこぎり買って来て取る。つったら外してくれたわ」
 夏場の熱さも手伝い、中に汗を掻いてしまうため、時間が経てば経つほどギプスの中に垢が溜まり、どうしても蒸れて痒くなる。痒くて眠れずギプスの隙間から棒を突っ込んで掻いたり、苛々しながら起きていた夜もあった。それから解放された清々しさ。健康のありがたみを一身に感じながら、フロックはけらけらと面白いとばかりに笑う。
「今日、バイト休みだろ?ちょっと早いけど、お前が帰ってくる前に色々作ったから食えよ。食って体戻さないとな」
 小さい冷蔵庫から、皿に盛られた牛の叩きが和えられたサラダに、冷製のじゃが芋のスープ、レタス多めの生春巻きと、あっさり目の食欲がなくとも進みそうなスタミナ料理が並ぶ。
「ご飯どんくらい食う?肉食いたいなら、まだ叩きとか、ステーキも出来るからなー」
 ジャンも煩わしいコルセットから解放されてから機嫌が良く、炊飯器の前に立ち、フロックが何も言ってないにもかかわらず、お椀にご飯を山のように盛っている。
「ずっと気になってたんだけどよ、お前、食材買う金どっから出てんだ?」
 フロックがジャンから伝え聞いた話では、未成年の男児を囲い、暴力や淫らな行いをしていた事が明るみに出る方が不味いと踏んだようで、お互いに今後一切の接触を禁ずる事と、住んでいた場所を出て行く事で決着がつき、慰謝料などもなかったと聞いた。
 またジャンは身一つで放り出されたのだ。なのに、フロックが生活費を渡そうとしても要らないと手を振り、逆にどこからか金を持って来て光熱費を渡してきた上に、生活用品や食材などを購入してくるのだから不思議で堪らなかった。
 よもや、新しい飼い主が見つかった訳でもあるまい。
「やっぱ気になるか?」
「そりゃな」
 ジャンは悩む素振りをみせつつも、ぱたぱたとスリッパの音を立てながら、別室へ入って行った。
 隣が静かになったため、バルコニー側に在った元寝室にベッドを戻して現寝室へと戻った部屋だ。聞き慣れたクローゼットが開く音。中から何かを取り出す音が大きくはないが聞こえ、中身不明の大きな長方形の白い紙袋を手にして戻って来た。ジャンがここへ来た日に見た覚えはある。
 牛の叩きを行儀悪く手で摘みながら解を待っていたフロックの目の前で、床に中身をひっくり返せば、どさどさと音を立てながら出てくる札束に目を剥く。
 良くドラマや映画で見るような整然と整えられた金の束と違い、輪ゴムで雑に纏められたものばかりだ。
「あの人が生活費とか、小遣いとか言ってくれてたのを貯めてたんだ。お前、なんか結構潔癖と言うか、ヒーロー思考みたいなのあるっぽいから、そんな金……。とか、嫌がるかなと思って黙ってたんだけど……」
「こんなに?」
 纏め方が雑なせいで、総額で幾らかは判断出来ないが、向こう数年働かずとも食べていける程度はあるようで、フロックは口を開けたまま金の山を眺める。
「あの人、元々金持ちの家らしくて、金の管理とか全部、秘書とか奥さん任せで、物の値段を全然知らなかったみたいでなぁ……、買い物は値段も見ずにカード払いにしてたみたいだし、その、ちょっと良くない銀行に入れられない金とか、使わなくなった時計だのアクセサリーだの気紛れにぽんぽんくれてたんだよ……、それ換金したり……、引いたか?」
 友人どころか知人すらなく、話す相手も居ないとあって、機嫌のいい時、行為に満足した際はぺらぺらと舌を回しながら戯れに金や物を渡しくれたのだそうだ。もしも、不要と捨てられた時の事を考えて貯めておき、必要分以外はかなり節約していたのだとジャンは語る。
 仕事の愚痴や、宜しくない関係、行為も、ジャンには零していたとあって、情報の出どころとして疑ったのも無理はない。正に飼い犬に手を噛まれたと感じたのだろう。実際は、あの男を良く思わない身内からの漏洩で、疑いは冤罪も甚だしいものだったのだが。
「……今更だけど、俺に声をかけたのは何でだ?」
「怒らねぇ?」
「内容による」
 ジャンは、どう言うべきか逡巡していた。金を袋に戻しながらのわざとらしい時間稼ぎをし、二、三分ほど経って、そのう。と、目を逸らしながら口火を切った。
「声をかけた時に思ったのは、また通報とかされて、あの人の機嫌が悪くなったら嫌だな。と……、顔見知りになっとけば、黙って貰うようにお願いも出来るとか、まぁ……」
 特に一目惚れを期待していた訳でもないが、気不味そうに語るジャンに、勝手ながらフロックは落胆した。もっと純粋な想いを期待してしまっていたようだ。
「通報されたのか?」
「昔、あの人がちょっとはしゃぎ過ぎて、まだ慣れてなかったから怖くなって馬鹿みたいに悲鳴上げちまって……、そしたら、警察来て……、んで、機嫌悪くなって、酷くされて。みたいな……、暫くマジで怖かったし」
「問題にならなかったのか?」
「俺がホラー映画見て騒ぎ過ぎたから。って謝らされたから……」
 酷い目に遭わされた上に、叱責を受け、責任まで被せられ、とことんいいように使われている。さっさと逃げれば良かったのに。は、結果論で、言っても意味がない上に、当時のジャンはあの男意外に寄る辺がなかったのだ。仕方ないと思う他ない。
 それよりも、だ。
「今はどう思ってんだ?」
 フロックが一番気になるのはこれだ。ただの仮宿で終わりたくない。あわよくば。の思いはある。ジャンの気持ちが知りたくて仕方がなかった。
「一緒に居るんだし、嫌いな訳ねぇだろ?」
 もう一押し情報が欲しい。
 フロックが要求する前に、ジャン自身がそれに。と、続ける。
「話してみたら、ちょっと調子に乗り易い感じはあるけど、頑張ってるいい子だ。って思ったし、聞いてたらパンだのインスタントばっかりって言うから気になってなぁ……。あー、後、あの人との関係を知っても無視しないで、寧ろ心配してくれただろ?綺麗にご飯を食べてくれるのも嬉しかったしな。お前が来るのが楽しみになって飯作るのにも気合入った」
 好意は持たれているようだが、これではただの動物の餌付けの感覚でしかない。もう一歩、否、それ以上踏み込む関係になりたいのだ。
「その、まじで殺されるって思った時に助けてくれて感謝してる」
 床に座ったまま、うなじを撫で、俯いているジャンの表情は解らないが、髪の隙間から見える頬や耳が仄かに赤い。
 じっとフロックが無言で見詰めていれば、じわじわとより赤くなる。
「行く当てもないからって、お前の好意を利用して側に置いてるような奴だぞ。俺は」
 卑下か自虐か、自分でも良く解らない言葉を吐き、フロックはジャンの様子を観察する。
 ちらりとジャンはフロックを見上げ、
「逆じゃねぇの?」
 と、ぽつりと返す。
「俺が言う事だろそれ。お前が何も言わずに置いてくれてるのに甘えてんだぜ?」
 ジャンはけらけらと笑い、フロックの言葉の意味を理解していないようだった。ずっと独りぼっちで、あの男の機嫌意外に気にする事がほとんどなかったせいか、不機嫌な様子や、苛立ちには敏感だが、好意的な感情になると、とんと鈍い。
「まぁ、お前のギプスも取れた事だし、いつまでも世話になってられねぇな」
 フロックがもどかしい気持ちをどう表現するか迷っている間に、ジャンは雑に金を片付け、手を洗いながら寂しそうに呟いた。
「どういう意味だ?」
「俺もどっか新天地探すとか、じゃなきゃちょっとふらふら旅するのもいいかな。とか……」
 はっきりと自らの想いを告げるべきか、それとも、やっと解放されたのだから自由にしてやるべきか。フロックは決断出来ずに言葉を呑み込んだ。
「飯食って、のんびりしようぜ。明日は完治祝いにケーキでも焼いてやるよ」
「お、おう……」
「反応悪いなー、どっか痛いか?」
「痛いより違和感があるかな……?」
 右手をぶらつかせジャンの意識を逸らす。
 一か月も固定していたのだ。違和感は確かにあったが本当は清々しい解放感の方が強い。故に、こんなものは上手く表情が作れない言い訳に過ぎない。
「これって直ぐ直るのか」
 骨と皮のようになったフロックの二の腕をジャンが触り、皮膚がごわついている感触が面白いのかやたら撫で回す。
「俺も胸のコルセットがしんどかったしなぁ。ちょっと胸囲減ったかも」
「男の胸が減って悲しむ奴は居ねぇから安心しろよ」
「まじでな!」
 冗談交じりに自らの胸を揉んで見せるジャンに、こいつ性質悪い。などと思いながらフロックは突き放し、返しが面白かったのかジャンはけらけら笑っている。あの男が居る時には見れなかった無邪気な笑顔だった。
「阿保くせ、飯食お」
「食おー」
 ジャンは食事をしながらも笑いが抜けないのか、くすくすくすくすと止まらない。肉を飲み込もうとして詰まらせそうになり、慌ててお茶で流し込んだくらいだ。
「いい加減、止めろよそれ」
「わり、なんか知らんけど止まんなくてさ」
 見ていれば放したくないとの思いが強くなる。
 傷つき、耐えて、やっと得た自由が嬉しくて堪らないのだろうに、逆の事ばかりを考える自分にフロックは嫌気が差し、無邪気に笑うジャンに返せるものは苦笑しかなかった。

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