兵舎の庭を二人の巨漢が歩いている。
一人は104期生、みんなの頼れる兄貴ライナー。
もう一人は、ライナーの影のように常に背後に居るベルトルト。
ライナーが座学の事や訓練の事でベルトルトに話しかけているが、偶に、うん、やぽつぽつと喋る程度で、ほぼ一方的に話しかけているような状態である。
ライナーは座学の復習も兼ねているのか腕を組んで話しながら考えを纏めているようだった。
「おい、ライナー、誰と喋ってんだ?」
偶然、通りかかったエレンがライナーに話しかける。
直ぐ横には、アルミンとミカサも居り、怪訝な表情を浮かべていた。
「誰って、ベルトルトに決まって……」
ライナーが言いながら後ろを振り返ると、先程まで居た筈のベルトルトが消えている。
ぺたり。と、両手で顔を覆い、ライナーはエレンに問いかける。
「……おい、俺はいつから一人で喋ってたんだ?」
「知らねぇよ……、顔隠すな、乙女か」
「うるせぇ、見んなよ、頼むから」
相方が居ない事に全く気付かず、喋りながら歩き続けていたなど、もしもコニー辺りにでも見られていたら一ヶ月はネタにされるのは間違いない。
せめて直ぐに自分で気がつけば良かったが、他人に指摘されて顔から火が出そうなほどに恥ずかしく、恥ずかしさの余り顔を隠す。が、顔は大きな掌でしっかり隠せているものの、短く刈られた髪から出ている耳が真っ赤なため照れてしまっている事は明らかで、正に頭隠して尻隠さず状態で意味が無い。
「あ、あのさ、僕もエレンやミカサが居ると思って普通に話し続けてた事あるから、気にしない方が……」
アルミンが背を叩いてライナーを慰める。
一旦、語りに入ると止まらなくなり周りが見えなくなる。
気がつけば、いつの間にか幼馴染の二人が居らず、一人で喋っている変人と化している事が間々あるアルミンには人事ではない。その時の居た堪れなさと言ったら、穴どころか自ら巨人の口に飛び込んでしまいたくなる程だ。と、アルミンが語れば、おう。と、短く返事をすると照れを誤魔化す為か頭をがりがりと掻いて溜息を吐く。
「なんも言わずに、どこ行きやがったんだあいつ……」
「歩いてたなら、来た道を戻ってみたらどうかな?」
動揺して頭が回らなくなったライナーにアルミンが助言する。
エレン達に別れを告げ、助言通りに来た方向を戻ってみれば幾らも歩かずベルトルトは見つかった。木の陰にしゃがみ込んで何かをごそごそとやっている。近付いてみればぼそぼそと喋っているようで、もう一人の影が見える。
「ここをこうすれば、もっと喜ぶよ」
「ふーん、ほんとだ、すげーゴロゴロ言ってる」
覗き込めば栗色の短く刈った髪が見え、声からジャンだと知れた。
「何してんだ、お前等……」
いつの間にか消えた上に仲良く何をやっているのか。
ベルトルトが何事もなかったかのように、きょとんとして何か問題でもあったか?と、言いたげな様子でライナーを見上げる。
「ふらっと居なくなるな、びっくりするし、心配するだろ」
突然、消えた行動を諌めはするが、自分が非常に恥ずかしい目に遭ったと言わないのは優しさか。単純に言いたくなかっただけか。
「あのね、ライナー、猫」
悪びれもせず、へらっと笑い、左右の目の色が違い、透き通るほど綺麗な白い毛を持った猫をベルトルトがライナーの目の前まで抱き上げる。猫はんなぁん。と、甘えたように鳴いて金と青の瞳でじっと見詰めた。
要するに、木陰で猫が寝ているのを見つけて、ふらふらとそちらへと行き、今まで撫でくり回していたらしい。
「可愛いね?可愛いよね?」
ベルトルトが団服に毛がつくのも構わず抱き締め、可愛いと繰り返す。
「飼える訳ないだろ?」
「でも、可愛いよ?」
「俺達は税金で養われてるしがない訓練兵だ、愛玩動物を養うような甲斐性は無い、だから駄目だ」
「えー……、僕の分けるから駄目?」
「そんなもん、いつまでも続けられる訳無いだろ。泊まり込みの訓練もあるのに無責任だ」
「なぁ、お前等、何で会話が成立してんだよ、聞いてるこっちは意味わかんねぇぞ」
ほぼ可愛いとしか言っていないのにライナーには意図が伝わっているらしい様子に、ベルトルトの隣で成り行きを黙って見ていたジャンが口を挟む。
「ん、そりゃ長年の付き合いって奴だ」
「アレだのコレだので意思が通じる熟年夫婦かよ」
「えぇー、止めてよ気持ち悪い、せめて兄弟って言って」
ライナーの発言にジャンが呆れ顔で突っ込めば、ベルトルトは心底、嫌そうに言って、ねぇ?と、猫に話しかける。猫は、ただ可愛く、うなん。と、鳴いただけだ。
「そういや、お前は何してんだ?」
ベルトルトの発言など気にもせず、ライナーがジャンに問えば通りかかっただけ。との返事が返ってくる。ベルトルトが木陰で何かしているのが見えたから興味を引かれて話しかけたらしい。
「俺、猫ってあんま触った事ねーんだよな」
ジャンは物珍しくて仕方が無いのか、ベルトルトの腕の中に居る猫の顎を撫で、やわっけー。と、感動したように目を輝かせる。サシャのような狩猟で暮らしたり、内地へ出荷する程の大量の作物を作って居るような村であれば蔵を荒らす鼠を退治してくれる猫を飼うことは珍しくないが、蔵に収穫した物を置く事が無縁の町の一般市民には人間ですら食べ物に困っているのだから動物を用途もなしに飼うだけの余裕もなければ、必要も皆無であるため、猫を珍しく感じても仕方がない。
「抱っこしてみる?」
「おう!」
ベルトルトが猫を差し出せば、ジャンが満面の笑みで手を差し出す。一瞬、止まり、ぱちりと瞬くと、再度、笑って猫を渡す。
「赤ちゃん抱くみたいに、抱っこするといいよ」
「あー、赤ん坊も抱いた事ねーんだけど?」
「簡単だよ、お尻と首をしっかり支えて、体全体を包むみたいに、優しく持って」
「毛もふわっふわで気持ち良いなー」
ベルトルトがあれこれと指導しながら猫を抱かせると、ジャンは満足げに撫でたり頬ずりをして感触を楽しんでいる。
「ね、ほらライナー、可愛い」
ジャンの背後に立ち、両手を肩に置くとライナーにぐいと猫ごとジャンを差し出すように押し出す。
「ジャンは味方にはならんと思うが……?」
「俺がお前の味方かは知らねーけど、取り合えず頭に顎置くな」
ジャンは文句を言いつつも大して気にしていないのか、猫の前足を摘んであやすように遊んでいる。
「確かに可愛い猫だが、これだけ綺麗ならとっくにどっかで飼われてるんじゃないか?」
「そうだな、全然、痩せてねーし人懐っこいし、誰からか餌は貰ってんだろ」
「飼われてるの?餌、貰ってるの……?」
肩に手を置いたままベルトルトがジャンの顔を覗き込みながら訊く様子に、ライナーはおや?と首を傾げる。
「俺に訊いたって判るかよ。なぁ、それより、尻尾の付け根辺り撫でると気持ち良さそうだけど、何かぷるぷるして震えてる……?のは何でだ?」
「震えてるのは……敏感な子なのかな?猫の尻尾の付け根は性感帯だよ」
背後のベルトルトを見上げるようにして訊いたジャンが性感帯と聞いて思わず猫を放す。猫は軽やかに着地はしたものの突然落とされた事に驚いて、うな!と、不機嫌そうに一声鳴いて腹立たしげに尻尾を振りながら去って行ってしまう。
「わりぃ、逃がしちまった。ま、その、これで諦めつくだろ?」
「うん、しょうがないね、飼い猫なら。……譲ってもらったり出来ないかなぁ?」
「意外と、頑固っつーか、しつこいなお前、無理だって」
「無理なの?どうしても?偶に餌やって撫でるのも駄目?」
「んー、餌やんのは、散かる原因にもなるだろうし、良くねぇだろ。んまぁ……、見かけたら撫でる位ならいいんじゃね?」
「ホント?いいの?良かった」
何故かジャンにしつこく許可を求めるベルトルトにやや辟易しながら面倒臭そうに答えている二人の会話に、どこかずれを感じながらライナーは黙って眺めていた。その晩の夕餉で、珍しく果物が支給され、紫色の丸い球体で甘い香りを放つ甘味に訓練兵達が沸き立つ。直径二センチほどの実の皮を剥き、口に放り込むと甘い果汁が咥内に広がり、誰もが顔が綻ばせていた。
ジャンが名残惜しさに指についた果汁の雫を唇で掬い取れば隣に居た友人から注意を受ける。
「こらジャン、ちゃんと拭け、舐めるなみっともない」
「わり、ついな」
マルコに軽く言い訳をしつつジャンは拭くものを探すがハンカチは食堂に来る前に汚れた団服と共に洗濯籠に放り込んだ事を思い出して皿の上に手を浮かせたまま洗いに行くか放っておくか逡巡していると、隣からマルコではない手がハンカチを差し出してくる。
「使って良いよ」
昼間のように、へら。と、顔を緩ませてジャンがハンカチを受け取るまで待っているのはベルトルトであった。
「おぉ、わりぃな洗って返すわ」
「いいよ、どうせ明日纏めて洗うもの。それより、果物好き?僕のも食べる?」
ベルトルトが手を拭くジャンの頭を撫でながら機嫌良さげに微笑み、自分の皿に残っている果物を勧めてくる。
「食いてぇけど偶にしか出ねーぞ、こんなん……?俺から返せるようなもんがねぇ」
「いいよ、僕、甘いのちょっと苦手」
そうは言っても滅多にない贅沢品である。隣には何かと厳しいマルコも居り、自分から手を出すのはいささか躊躇われて迷っていると、ベルトルトが丁寧に皮を剥いて実をジャンの口元へと差し出す。ここまでされれば貰わないのは逆に失礼なのではないか。ジャンは逡巡しながらもベルトルトの手ずから食べれば、彼の笑みは深まり満足げだった。
やっぱ甘くて美味いな。と、ジャンが機嫌良く味わっていれば、
「美味しそうに食べるよね。もう一個要る?」
問い掛けのように言っているが、既に皮を剥きながら訊いているので返事如何に関わらず上げる気は満々のようだ。先程と同じく差し出されれば同じように食べ、
「美味しい?」
ベルトルトは嬉しそうに尋ねてくる。
「おう、美味い、あんがとな」
言葉はいつも通りだが甘い果物の効果か、ジャンの普段、険のある目付きが柔らかく緩んで、ふにゃっとベルトルトに笑い返す。お互いに機嫌よく、花でも飛んでるような雰囲気にジャンとベルトルトの相方が二人して思う事は、いつの間に仲良くなったんだろう。である。二人して猫で遊んでいたから、それをきっかけに仲良くなったのかも知れん。ライナーがマルコにそう伝えれば納得したようで、ジャンに友達が出来る事は喜ばしい。そう自分の事のように喜んでいた 。
◆ ◇ ◆ ◇
例の猫の日から、ベルトルトは何かにつけてジャンに構い、頭を撫でて、必ず出て来る言葉は、可愛いね。
子共扱いをされているのかと最初こそ不満げだったジャンも、何度もやられていると慣れてしまったのか次第に気にしなくなり、言葉が少なく聞き役になりがちなベルトルトにあれこれと話しかける機会も、急かさない雰囲気が落ち着くのか一緒にのんびり座って居る時間も増えた。
「ねぇ、ライナー、あの行動はどう解釈したらいいのかな?」
「そうだなぁ、抱き枕的な感じか?子供がぬいぐるみとか抱いてると安心して泣き止んだり、よく寝たりするだろう?」
うーん。と、ライナーの解釈に呻るのはマルコである。
二人並んで宿舎の自室の椅子に座り、マルコは机に頬杖を突いて、ライナーは腕を組んでベッドを眺めている。その視線の先にはジャンとベルトルトが寝ていた。
今日は特に体力を消耗するような訓練の連続で、疲れたジャンは早々に風呂に入って眠ってしまった。ベルトルトも同様である。寝床は特に誰がどこ。とは決まってはいない。寝たい者から掛け布団を出し、端から詰めて寝る。最初は普通に並んで寝ていた筈だが、ライナーがマルコと雑談をしている内に、いつの間にやら寝返りでも打ったのかベルトルトが端に移動してジャンを抱き締めるようにして寝ていたのだ。
「あれかな、今日はちょっと冷えるから、温い方に転がって行ったか……?」
「あぁ、それジャンも偶にやるな。いつの間にか人の布団の中に入っててね。起きたら顔が目の前にあるんだもん、びっくりするよ」
「寝ぼけてるんだよな、それならしょうがないな」
「……うん、しょうがないね、うん」
行動原理は何となく察してはいるが、見なかった事にしよう。言外に込められた言葉をお互いに了承し、視線を逸らす。保護者二名がそうしているので同室の者も変にからかったり、突っ込んだり出来ず黙っている。何かあれば相談位するだろう。少々甘く考えていた。
が、
ある夜の事だ。
ジャンが真っ赤な顔をして宿舎の自室に飛び込んできた。本当に飛び込んで。と、言う形容にふさわしく、乱暴に開かれた扉は全開になり、取っ手が、がちんと酷い音を出して壁にぶつかった。人が扉の近くに居れば怪我の一つでもしかねない勢いだ。
そんな事にジャンは構わず、マルコの姿を認めると強引に手を引き、瞬く間に何処かへと連れて行ってしまった。
嵐のような誘拐劇から程無くしてベルトルトが肩を落とし、着て出て行ったであろう外套を地面に引き摺りながら顔を俯かせ、泣きそうな表情で戻ってきた。
どうかしたのかとライナーが訊くと上げた顔には左頬に四本の引っ掻き傷があった。血でべとべとになり、よく見れば服にも赤い汚れが点々と付着している。
事故か事件か、あるいは別の、詰問する前にベルトルトの目に涙が溜まったかと思えば、次にべそべそと泣き出したため、ライナーが慌てて背中を押して部屋から押し出し、話を聞こうと人気のない場所へと移動する。ほぼ同時刻。ライナーとマルコは、頭を抱えた。片方は、とうとうやったか。片方は、何やってんだお前。ほんの数十分前の出来事である。
◆ ◇ ◆ ◇
寒くなってくると暗くなるのが早く、真っ黒に染まった空には割れた硝子を散りばめたようにきらきらと星が光っている。ベルトルトは宝石は見た事がない。故に、光を反射して光るものは硝子。それでも十分綺麗だ。いや、見た事はあるかも知れない。昔、山の中で拾った透き通った石を思い出す。そう言えば、あの石は一体どこへやってしまっただろうか。
茶色っぽく見えるが日に透かせば金色に輝いて、とても綺麗で気に入っていたのに、いつの間にか無くしてしまった。大木に背中を預け、座って空を見上げていれば、ざく。と、足音がする。振り向けば、白い息を吐きながらジャンが歩いていた。
己と同じく散歩でもしているのか、
「ジャン、散歩?」
気安く声をかければ冷気に晒されて、その寒さに険しくなっていた顔が綻ぶ。
「おう、お前もか?さみいけど、この時期は気持ち良いよな」
ジャンが歩み寄り、当然のようにベルトルトの隣に座りながら悪戯っぽく笑い、同じように空を見上げた。
「夏より、冬の方が空って綺麗だよなー」
「そうだねぇ。空気も澄んでて気持ち良いし……、でも、寒いのはあんまり好きじゃないんだよねぇ」
言葉通り、ベルトルトはこれでもかと着込んでいる。今ならばライナーと並んでも体格に違いは無いように見える程に。
「お前、暑いのも嫌つってなかったか……?」
「暑いのは汗でべたべたするし、空気も淀んでるし……」
「じゃあ、どの季節ならいいんだよ」
呆れたようにジャンが言いい、首を傾げて呻りながらベルトルトはこの季節は、これは良いが、あれは嫌。あの季節は、これは好きだが、あれは嫌い。それぞれの季節の好きな所、嫌いな所があって決められない。
我侭と言って良いか、優柔不断と言うべきか、ジャンは本当にめんどくさい奴だ。そう言ってケラケラと笑った。
「そう言うジャンは、何が好きなの?」
「俺ー?そうだなぁ……、楽しけりゃどの季節でもいいと思うぜ」
「僕より曖昧じゃないか」
「そうか?好きな奴が側に居れば、俺はいつでも楽しいし幸せだな」
言い終わるとジャンは一つ、くしゃみをして体を震わせる。
外に出るには少々薄着が過ぎたのか、寒そうに自分の体を抱いて少しでも暖をとろうと試みるが、ベルトルトの目にはあまり役には立って居なさそうに見えた。動いている内は寒さも心地好かったのだろうが座って居てはそうもいかない。
ベルトルトが着ていた外套を脱ぎ、体を引き寄せると外套をジャンに頭から被せる。こうやって抱き寄せても可愛いと言っても、ジャンは拒否をせず、今とて温い。と、笑っている。これは期待してもいいのか。冷たく肌を刺す冷気から守るように、肩をぐっと掴み、寒さでやや頬を紅潮させているジャンに顔を寄せる。
「ねぇ、好き……?」
「え、えっと、顔近い……?」
「僕の事、好き?」
問いとは、見当違いの答えを返すジャンにそうじゃない。とばかりに、もう一度訊く。互いの吐息が交じり合うほどに距離は近い。
「嫌いなら一緒に居ねーよ……」
捻くれた答えで、真っ直ぐに見詰めてくるベルトルトから視線を逸らしつつも、はっきりと返す様子にベルトルトは嬉しそうな表情で微笑む。
「君は……、ジャンは本当に可愛いね」
「んだよ、またそれ……」
ジャンが口を挟もうとしたが、ベルトルトの唇にそれを阻まれた上に体を押され、重力に従い、ずるずると倒れ込む。
「べ、ベルッ、ちょ、ま、待て、何してんだ⁉」
ジャンの声など聞こえないと言わんばかりに瞼にも口付け、ベルトルトは少し体を起こすと口で身に着けていた手袋を銜えて外す。
何も着けていない手で優しくジャンの頬を撫でれば外気によって冷えた肌は熱い手には心地好く、触れれば柔らかく絡んでくる髪に音を立てて口付ける。
「あのね、僕、ジャン大好き。可愛い。直ぐ意地張って、素直になれない所も、何でも一生懸命、頑張る所も、僕なんかに笑いかけてくれるのも、とっても嬉しいんだ。綺麗な手も、柔らかい髪も、唇も、瞳も、好きなんだ」
昔見つけた石は無くしてしまったが、もっと綺麗なものを見つけた。何度も可愛いと口ずさみながらジャンの手に指を絡め、好きだと言ってあちこちに口付けを落とす。
次第にジャンの体が熱くなっていき、冷ややかな空気の中で触れる体温が心地好い。触れれば触れるだけ、もっと、もっとと貪欲になって行く。
堪らず薄い喉仏に口付け舌先で顎から薄い唇へと辿り舐め上げた。
制止の声をジャンが上げるがベルトルトの耳に入っていない。言葉を発して薄く開いた唇を覆い、舌をぬるりと咥内へ進入させ、感触を味わうように丹念に舐り、喰らい尽くすように貪る。
唇を離せば、あえかな声をジャンが上げ、吐き出される熱の篭った吐息が冷えた空気を白く濁した。
「ジャン、可愛い……」
ベルトルトが陶然とした笑みを作り、薄く瞳に涙を浮かせながら酸欠で喘ぐジャンを見下ろす。
握り締めた手を離し、掌を擽るようになぞり、その手をひたりと首筋に当て、力一杯に締めれば簡単に折れそうだ。と、いささか危ない事を考えながら綺麗だと囁く。すると突然、ジャンがベルトルトの手を払い除け、腕で顔を隠す。
「何で隠すの?見せて?やだよ、ジャン」
「いやだ、馬鹿!触んな!」
暫し、見せろ、嫌だの攻防が続き、興奮したジャンが、だから止めろって!そう一際大きく叫び、平手とも拳ともつかない中途半端に握った手を目を閉じたまま思い切り振れば、それはベルトルトの頬に4本の筋を作った。特に深く抉れた部分からは、暖かいどろりとしたものが流れる。
「あ、悪、い、怪我させるつもりじゃ……」
「いいよ、こんなもの直ぐ『治せる』から」
乱雑に手の甲で垂れる血を拭い、再度ベルトルトが顔を寄せれば溢れた血がジャンの顔へと垂れ、赤くついた汚れに気付いて、あぁ、綺麗なものが汚れてしまう。と、掌で擦るが、血は薄く広がって面積を広げたけに過ぎず、自身の血液で汚れた白い肌を見てベルトルトは悲しそうな顔をする。
ベルトルトが上体を起こして袖で頬を拭えば今度は服に赤黒い染みが出来る。じわじわと溢れてくる血が鬱陶しい。しかし、今、治してしまえば蒸気を発してしまう。目を閉じさせても、たった今ついた傷や血が消えれば化け物と言われてしまうかも知れない。それだけは嫌だった。
誰でも対等に扱ってくれるジャンにだけは、化け物などと呼ばれたくはなかった。
「おい、強く擦るな、ちゃんと手当てしねぇと……」
ベルトルトが何度も強く擦るせいで血は止まるどころか次から次へと浮いてくる。
「止めろって……」
「だって、このままじゃ、僕の大事な君が汚れちゃう」
黒い瞳でじっと見詰めながら言えばジャンの肩が跳ねて、慌てたように目を逸らす。
「それも止めろ……」
「何で?大好きだよ。僕の綺麗な宝石。とっても大事で、猫みたいに可愛くて好きなんだ」
譬え、この感情に未来がなくても。
「だから、止め……ろって……」
俯いたジャンの肩がぶるぶると震えだし、ベルトルトは首を傾げる。
「どうしたの?寒い……?」
「お、男に向かって綺麗だの、可愛いだの!気持ちわりぃんだよ、ばーか⁉」
それだけを言うと、ジャンが勢い良く立ち上がり様にベルトルトを突き飛ばし、瞬く間に走り去ってしまった。残されたベルトルトは、暫し唖然としていたが何度かジャンの言葉を脳内で反芻し、嫌われてしまったのか。と、結論付け、のろのろと立ち上がると地面に敷かれた外套を引き摺りながら歩く。
歩きながらも嫌われた事実が頭の中をぐるぐる回り、衝撃の余り足元も覚束ない。折角、好きだと言って貰えたのに余計な事をしたせいで気持ち悪いと嫌われてしまった。何で我慢出来なかったのか。本当に馬鹿じゃないのか僕。
ベルトルトは自ら良好だった関係を壊してしまった自身の愚かさに打ちのめされ、ジャンは彼の行いに驚いて猫のように毛を逆立てて逃げてしまった。
そして冒頭へと戻るのだ。
◆ ◇ ◆ ◇