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馬房

小説は妄想と捏造甚だしい。 原作のネタばれ、都合の良い解釈。 R18、グロ(精神的にも)、暴力表現などが含まれます。 冒頭にざっと注意を書いてありますので、それを読んだ上での 閲覧を宜しくお願い致します。何かあればご連絡いただければ幸いです。 基本的に右ジャンしか書きません。 萌が斜め上です。無駄にシリアスバイオレンス脳です。 拙い文章ですが、少しでもお楽しみ戴ければ嬉しく思います。 右ジャン、ジャン総受けしか書きません。あしからず。

幸せになりたい=惹かれる香り=その三

【幸せになりたい】
・ナチュラルに自己評価が最底辺のジャン君(自分が悪いみたいな
・フロックが不憫で仕方ないジャン君
・何もかもが平行線な二人
・めそめそするジャンとフロック
・男体妊娠描写あり
・フロックがこそこそ画策してた感じ
・ジャン君がおろすのなんのと言ってる
・一応穏便に済む





 息苦しさに目を覚ませば、フロックが俺に抱き着いて安らかな寝息を立てていた。
 人の胸元に顔を埋め、あまりに幸せそうに眠っていたため、一瞬、起こす事を躊躇ったが、今日が平日であり、額に手を当てれば熱もすっかり下がっているようだったから叩き起こしてやった。
「フロック、起きろ」
 頭を小突き、声をかけるが聞こえているのかいないのか。もぞもぞ動きはするものの、フロックは一向に起きようとはしない。
「ぐずってないで具合良くなったなら顔洗って来い」
 叱れば表情を歪めながら目を開け、寝惚け眼でフロックは俺を見上げてくる。病み上がりかつ寝起きで不機嫌のようだ。
 宥めるように背中を撫で、力が緩んだ腕から俺が抜け出せば、渋々一緒にベッドから這い出たが、まだ眠いのか頭を揺らし、壁に手をつきながらトイレに向かっていた。

「具合どうだ?」
「もう、全然大丈夫」
 顔色は見るからに改善しており、食欲も出て来たのか俺が作った朝食もがっつくように食べていた。このまま、問題なく日常生活に戻ってくれればいいが、妙に気を使っている様子や、動作や表情にどことなく垣間見える怯えが気になる。
 恐らくは無意識だろう。出来得る限り、以前と同じように振る舞おうとしているように見えても、ぎこちなさが見え隠れしてしまう。
 気にするなと言っても限度があるか。どうするべきか悩み、朝食を食べ終わったフロックが食器を片付けようとしてくれたが断った。俺が風邪を引いた時もそうだが、罪の意識を感じ、俺に奉仕する事で少しでも贖おうとしているのなら必要ない事だからだ。
 このまま、延々と抱え込んで俯かせていては、フロックの将来も心配で、俺も気疲れしてしまう。何をどうする事が最善だろう。

   ◆ ◇ ◆ ◇

 悩んでいても仕事はしなければいけない。
 時間は一刻一刻と過ぎていく。
「これ頼むな」
 黙々と仕事を熟していれば定時が近づいて、今日の献立は何にしようか。そんな事を考えていたら、自分が任されていたはずの書類を、同僚が俺に渡してきた。
 またか。と、溜息を吐きたくなる。こいつはいつもこうなんだよな。さっきまで他の人とゲームの話をしたり、机でスマートフォンを弄っていた癖に、こうやって俺に仕事を押し付けてくる。俺が休んだら一番文句をつけてくるのもこいつ。正直人として好きにはなれないし、他人の仕事を請け負いたくもない。
 だが、以前、堪りかねて断れば、俺のありもしない悪口を言い触らして回り、業務遅延の事実を自分の都合良く捻じ曲げて上司に報告する始末。お陰で会議室に呼び出され、全く身に覚えのない失態を責められた挙句に、否定しても言い訳としか捉えて貰えず、極度に疲弊した記憶が蘇る。
「分りました……」
 またあんな目に遭うくらいなら、多少残業になっても平和で居たい。そんな風に思いながら書類を受け取ろうとすると、
「それ、貴方が任されてた案件ですよね?なんでキルシュタインさんに渡してるんですか?終わってチェック頼むなら課長とか部長に渡しますよね?」
 俺の隣で仕事をしていたフロックが、目敏く同僚を見咎め、一気に捲し立ててきた。
「ほらキルシュタインさんに任せた方が早いし?俺も暇なくてさ」
「さっきずっと机でスマホゲーしてましたよね?その時間やってれば大分進んだんじゃないですか?仕事中に遊んでた癖に、自分が任された仕事を人に押し付けて恥ずかしくないんですか?大体、何しに会社に来てんですか?先輩って居る意味あります?給料泥棒って貴方のための言葉じゃありません?」
 同僚の言い訳をものともせず、フロックが事実を指摘し、周囲に聞こえるような大声でずけずけときつい正論を突きつける。
「おい、ふ……」
「この間も、入って一年も経ってない俺より仕事進んでませんでしたよね?何年も居てそれなんですか?今まで何をしてきたんですか?そんなの、俺なら恥ずかしくて死にそうです」
 俺が慌てて止めようとしても聞こえていないようで、フロックは怒涛の攻撃を同僚にぶつける。反論が出来なかった同僚はぶるぶる体を震わせ、俺に押し付けようとした書類を持って舌を打ちながら自分の席に戻っていった。
「別に良かったのに」
「可笑しいでしょ、遊んでた癖に人に押し付けるとか、大体、請け負うのも可笑しいし、どんだけ馬鹿なんですか?」
 苦々しく笑いつつ言えば、俺にも余波が飛んできた。
 言い返せずに空笑いをしてキーボードを叩いていれば、肩を叩かれ溜息と共に手を差しだしてきた。
「今やってるの終わったら手が空くんで、溜まってんのこっちに回して下さい」
「いいって……」
「苦労をしょい込むのが好きなら別にいいですけどね」
 フロックはつまらなさそうに言うと、俺に向けていた視線をモニターに戻し、落ち着いた様子で仕事をしていた。一瞬、どうなる事かと焦ったが、しっかりしてきたものだ。

 フロックは、今のように、はっきり言い過ぎる嫌いはあるものの、優しい所もあり、純粋で、目標さえ出来れば頑張れる人間だ。
 中途で入ったばかりの頃は、解らない所が解らない。とでも言えばいいのか、質問しようにも基本を理解していないために動くに動けなくなっていたり、経験の少なさから、助言されても上手く受け取れなかったりしていたが、都度教えれば、決して呑み込みは自体は悪くなかった。さぼり魔よりも優秀で当然。
 気になるのは、今度はフロックが意味不明な悪口の標的になって、嫌気が差したり、疲弊して辞めるような事にならなければいいけれど。と、そればかり。
「別に、好きな訳じゃないんだけどなぁ」
「そうですか」
 俺の懸念に気付かないフロックに苦笑し、目の前の仕事に集中するが、離れた机からがたがた、がちゃがちゃ乱暴にキーボードを叩く音がやや煩い。同僚の『俺は腹を立てているのだ』。
 とのアピールなのだろうが、物に当たって何がどう解決するのか。寧ろ、苛々している様子や、音が周囲にも不快を撒き散らしている。意識的であれ無意識であれ、フロックのような好意から懐いてくる甘えと似たような子供っぽさでも、これは全く可愛くは思えない。
 先程のフロックのお陰か、俺に仕事を回してくる人間はおらず、手伝ってくれた事もあって定時前にはすっきり片付けられた。
 いい奴だよな。

 家で作ったシチューを一緒に食べている際に、思った事をぽろ。と、零せば、実に見事な『は?』が、返ってきた。
「強姦するような奴がいい奴って……、お前の感覚いかれてんじゃねぇの?詐欺にでも遭ってないだろうな?契約書類関係見せてみろ」
 酷い言われようだ。
 あれは、悲しいと言えば悲しかったが、それは俺の問題で、フロックは寧ろ被害者である。としか考えていない。
「は、はは、あれは俺のフェロモンのせいだからお前は悪くしないし、ほら、オメガって知っても使おうとはしないから……」
 以前の男とフロックを比較するのも失礼な気がしたが、俺がオメガだから。一度はやったんだから。と、開き直って処理道具にしたりしないし、かなり気を使ってくれている事は否が応にも気が付く。それが罪悪感からくるものだとしたら、可哀想だとも思う。根っこが優しいから気にするんだろう。どうにかしてやれればいいんだが。
「オメガだからって、なんかあった訳?」
 余計な事を言い過ぎたな。
「色々な……」
 笑って誤魔化せば、フロックは解り易く眉を下げて悲しそうにする。チワワかポメラニアン系の小型犬みたいだ。
「ごめん、変な事言った。忘れてくれ」
「謝る意味が解んねぇし……、俺は、いい奴じゃねぇよ。お前が、好きで……、迷惑だろうけど」
 好きか。
 もっといい人は他にも居るだろうに、何故俺なんだろう。
 あぁ、そうだ。フェロモンに中てられたせいで湧き起った衝動に勘違いをしてしまったに違いない。
 意図的ではないにしろ、本当に可哀想な事をしてしまった。抗えないオメガのフェロモンによる体の情動に引きずられ、精神が混乱してしまうのはアルファでも、否、アルファだからこそ間々あると聞く。ベータもフェロモンに惑わされてしまう以上、そうなる可能性は否定出来ない。
 オメガに支配される事を嫌うアルファが、そうなるまいと敢えてオメガに威圧的になり、それ故に暴力行為に走る場合もあると聞く。例えば、俺の父親のような。けれど、フロックは俺に暴力を振るおうとはせず、寧ろ助けてくれている。
 やっぱりいい奴だと思う。 

 俺が食べ終わってもぼんやりしていると、フロックが使った二人分の食器を黙って片付けてくれ、じゃあ。と、帰ろうとした。
 妙案は今一浮かばないが、どうにかしてやれないものか考える。フェロモンの影響による体の変調で俺を好きだなんて勘違いをしたり、あれも惑わされた末の行動なのに、罪悪感を持ったまま生きるのはあまりにも不憫だ。
「なぁ……」
 俺が帰ろうとする背中に声をかければ肩を震わせ、怖がるような素振りで振り返る。声をかけはしたものの明確な言葉は出て来ない。
「あの、お休み……」
「あ、うん」
 フロックは小さく手を振って部屋から出て行く。
 時間が解決してくれるかどうか。出るのは物憂げな溜息ばかりだ。

   ◆ ◇ ◆ ◇

 フロックとは微妙な距離を保ちながら上っ面の平穏を装い、付き合いは続けていたある日、夕方から熱っぽさを感じて具合が悪く、少し早めに上がらせて貰った。

 帰宅して直ぐにスーツから部屋着に着替え、熱を測ってみたが平熱だった。風邪でなければ、この不調で思い当たるものは一つしかなく、カレンダーを眺めながら、前回の発情期から指折り数えるが、約二ヶ月しか経っていない。大体四か月に一回くらいのはずなのに妙に早過ぎる。
「参ったな……」
 自律神経や、ホルモンのバランスが乱れているのか。徐々に酷くなる動悸に、息苦しさ。これは、病院に行った方がいいものか。
 そうは思えど眩暈が酷く、床に転がって眼を閉じていれば気絶するように寝入ってしまったようで、揺さぶられる感覚に目を覚まし、心配そうに眉根を寄せていたフロックと視線がかち合う。
「フロック……?」
「勝手に入って悪い、呼び鈴押しても出て来ない上に玄関も開きっぱなしだったから、なんか遭ったのかと……」
 具合の悪さに呆け過ぎて鍵を閉めていなかった。らしい。
「倒れてたぞ、救急車呼ぶか?」
「いい、寝てただけ……」
 重い頭を緩慢に振り、ベッドに凭れ掛かればフロックがそわそわ落ち着かない様子だった。不味いな。このままでは、またあの時と同じになってしまう。
「多分、発情期……、時期が変だけど……」
「あ、そう、だから……」
 フロックが言葉を濁したため、じっと見詰めていれば目を逸らして、いい匂いがしたから。そう付け足した。いい匂いなのかこれ。自分で嗅いでも全く解らないどころか、寧ろ、不快感の方が強い。
 頭の奥がぼやけて眩む気持ち悪さ。体が焼き付いていく感覚。
 意識せずとも唇が戦慄いて、吐息が震える。
「俺に出来る事あるか?あ、薬、薬要るよな?俺も飲んどく!」
 フロックが床に蹲ってしまった俺へ、触らないようにしつつ傍でうろうろして、思い出したように薬箱を開いたが、飲んだ経験があるベータ用の抑制薬は兎も角、どれがオメガ用の発情抑制薬か判らない様子で中身を漁って見比べ、箱ごと俺の目の前に持ってきた。
「あ、そうだ。み、水……」
 玄関側にある冷蔵庫へ行き、どたどた言わせながら俺の側を行ったり来たり。
「飲めるか?」
 フロックはペットボトルの蓋を開け、俺の前に置く。だが、俺は水に手を伸ばさずに目の前にあった手を掴んだ。
「えっ、あ、動けねぇの?抱えるか?」
 動揺しつつも、俺を優先的に考えてくれる。
 こんないい奴を、このままにしておくのは良くないよな。
「フロック……」
「うん?ベータ用の薬ならもう飲んだから心配すんな、襲ったりしねぇから安心しろ」
 先程、薬箱を漁っている時についでに飲んだのか。
 どっちでもいいんだけど。
「ちょっと、提案……ある」
 碌に効かないとしても、少しでも抑えるために薬を飲まなければいけないと、頭では理解している。しかし、フロックの俺に対する罪悪感や、妙な義務感を解消させてやれるいい機会かと、ふと、思いついた。実に下品で下らない思い付きだ。
「俺のセフレにならねぇ?」
 肩で息をしながら、床に転がったままフロックを見上げ、提案を口にすれば絶句していた。最低の提案をしている事は自覚済みだ。
「こい……、びと、じゃなく、て?セフレ?」
 フロックは口元を引き攣らせながら確認し、俺はそれに頷く。
 だって、そうだろ。俺達の関係に恋人なんて名前を付けたらフロックはそれに雁字搦めになってしまいそうだ。ただ快楽を共にする相手。割り切れば、以前の事も自然と記憶の海に流れ、勘違いにも気付き、俺なんかどうでも良くなって自分の幸せを求め出すだろう。
「俺は、お前を恋人とは見れないが、今の状態はどうにかしたい」
 都合のいい科白。
 このまま俺に幻滅でもして、目を覚ませばそれでも構わない。
「なんで……、セフレなんだ?」
「発情を解消するのに、一番手っ取り早い」
 重い体を起こし、ベッドに凭れ掛かる。解り易く、簡潔な回答。
 俺自身が性行為を好む好まざるに関わらず、体は勝手に子供を孕むために雄を受け入れる準備を始めるから行為自体に支障はなく、フロック相手ならまだ我慢も出来、多分、可愛がってやれる。
 建前としては、この鬱陶しい発情が直ぐに終わってくれるのならそれに越した事はない。お前の性欲解消にも役立ち、どちらにも利点がある。それだけだ。単純に考えればいい。と、説明したが、フロックは納得していない様子だった。
「それだけ……、か?」
「無理にとは言わねぇけど……」
 フロックはあの事故による俺への罪悪感を解消出来て、俺は薬の副作用や、悍ましい発情に振り回される時間が減る。思い付きにしては素晴らしい名案な気がしたが、気がしただけかも知れない。
 納得もして貰えず、熱くて汗が止まる事無く吹き出す上に眩暈がして、頭が回らず良く解らなくなってきてしまった。
「なんかもういいや……、フロックごめん……」
 俺が発情抑制薬を手に取り、口入れようとすると手首を掴まれた。
 かなり力が入っているようで、骨が軋み、痛みが走る。
「痛い……っ」
 フロックの手を引き剥がそうとしても全く動かず、眼が血走っていて怖かった。なにかが逆鱗に触れてしまったのか。実に不味い。今の俺じゃ殴られても絶対に抵抗が出来ない。
 生唾を呑み込み、なんとか手を振りほどいて逃げようとすれば蓋の開いたペットボトルを蹴ってしまい、床が水浸しになったが、気にする余裕はそもそもなく、体を床に押し付けられ、ふざけんな。と、小さく聞こえたかと思えばフロックが泣きながら怒っていた。

 また間違えたみたいだ。
 フロックが水にスーツが濡れるのも構わず抱き着いてきて、俺を抱き締めてきた。体がぞわぞわして気持ち悪いが、突き放しは出来なかった。俺の首元に埋まる頭を撫で、背中を擦る。俺と関わったばかりにこんな目に遭って、本当に不憫で仕方がない。
「いいから、おいで」
 フロックの股間で硬くなっているものが足に当たり、頭を撫でながら誘う。体を起こしたフロックが唇を引き結び、俺を睨んだ。
 すると、涙が零れ落ちて偶然にも俺の右目に入り、染みて痛い上に、瞬くと溢れて流れ、俺まで泣いているようになってしまった。変な感じだ。

 フロックは何も言わず、俺の服を脱がしていく。
 悔しそうで悲しそうで怒っているようで、どう表現していいのか判らない表情のまま、例の提案の是非も口にしない。
「ん、ぅ……」
 胸元から脇腹、太腿までゆっくりと撫でられ、俺は声を漏らして身をよじり、もどかしさに眉根が寄った。これは解消のためなのだから前戯などは必要ない。そう言ってもフロックは俺の体を触る。
 こんなごつい体を触って何が楽しいのか。ベータ用の薬を飲んでいるせいで今一、興に乗れないのか。俺ばかりが翻弄されてしまう。
「ふろ、もう、いいから……」
 性行為が苦手な理由の一つに、自分が自分で無くなりそうな恐怖があった。殊、発情期に入ってからする行為は、神経を直接掴まれたような衝撃に頭の中が真っ白になり、意識が飛ぶ事も多く、早く済むなら済むだけ安堵したものだ。
 フロックはどんな風にするんだろうか。
 激しくなければ嬉しいが。
「ジャン、俺は……、お前の思いどおりになんかならないからな」
 そう言って、フロックは俺の頬を撫でて、性器を突っ込んできた。
 どういう意味なのか。判然としないまま突き上げられて、反射的に涙が溢れて肌を伝った。
「はっ、ぁ、ひっ、ふろ、ゆっくり、やだ……」
 俺の声が聞こえていないのか、フロックは息を荒げながら歯噛みし、腰を揺らしている。何か言って欲しい。本気で怖い。殴られないだけましだが、嫌な記憶が蘇り、泣きたくないのに涙が止まらない。
「ふろっく……!」
「ジャン、俺は……」
 フロックの言葉は続かず、涙で目を真っ赤にしながら唇を噛んだ。
 何が正解かなんて、後にならなければ判らないが、これは今でも判る。確実に間違えた。

 やっぱり、俺は駄目だな。
 細く息を吐き、フロックの背中へ腕を回す。
 お互いに泣きながらの性行為とは、なんとも滑稽で、けれども、温かさだけは確かにあった。

   ◆ ◇ ◆ ◇

 土曜日の午前中。
 行きつけの病院まで行き、診察を受ける。
 周期外の発情期が来た事を申告するのはどことなく恥ずかしかったが、特にこれと言った原因は発見されず、やはり心労による自律神経や、ホルモンの乱れではないかと言われた。
「あのー、俺、避妊薬……、とか、常用しても大丈夫ですか?」
「何か明確な体調不良でも?……あぁ」
 質問をされ、俺が言い淀めばアッカーマン先生は察してくれたようで、血液検査の後にオメガ用の避妊薬と、発情抑制薬の処方箋を出してくれ、処方箋薬局では口頭ではなく、紙で注意書きを貰った。
 今日はイェーガー先生が休みで良かった。あの先生だと全て赤裸々に話さねばならない上に、注射がある種の拷問だから辛い。
「用法容量は必ず守って、少しでも不調があれば相談して下さいね。初めてのお薬ですから後からでも疑問があれば何でも訊いて下さい」
 処方箋薬局では、薬剤師のアルレルトさんが薬の説明と共に労りの言葉をかけ、袋を渡してくれた。ここでは初めてでも、別の所では貰った事があるが、余計な事を言わずに黙っている方が得策とばかり頷いておけば、特に言及はされなかった。
 優しい人が多く、いい病院が歩いて行ける範囲にあって良かった。

 薬を持って自宅に帰れば、ベッドの中にはまだ眠りこけている人間が居た。薬袋を座卓に放り、側に座って眉間に深く寄った皺を解すように撫でていれば、覚醒したのか獣のような唸り声を上げ、顔を余計に険しく歪めつつ目を覚ます。
「おはよ」
「あぁ……」
 フロックは体を起こそうとして直ぐにベッドに逆戻りし、枕に突っ伏して不明瞭な声を出した。薬を飲んでいたとはいえ、直にオメガのフェロモンに中てられ続けての性行為。まだ余韻が抜けずに酔っているのかも知れない。
「水飲むか?」
「う……」
 眩暈を起こしたか、頭がはっきりしないだけなのか、フロックは額を抑え俺を見もせずに返事をする。
「飯、どうする?」
 俺も気怠さはあるが、昨日ほどでもなかった。
 フロックに水を渡しながら訊けば首を振り、飲み干した後はまたベッドに沈み込んで呆けている。
「具合良くなったら風呂入れよ。好きに使っていいから」
「ん……」
 先と同じく短い返事して直ぐに目を閉じてしまった。
 俺もフロックに習い、クッションを枕に大きめのブランケットを被って床に寝転がる。腰や体の節々が幾分痛く、俺も疲れていた。病院に行くために、少々無理をしたが安心したら急激に眠くなり、横になれば一瞬で時間が飛んだのかと錯覚するほど眠った感覚もなく寝落ちていたようだ。

 時計は昼を指している。
 俺が起きる前に少し前にフロックは風呂に行ったらしく、浴室からシャワーを浴びる音がしていた。
 丁度良いとばかりに汚れたベッドシーツやカバー、敷パッドをはぎ取り、ベランダに置いてある洗濯機へぎちぎちに詰め込めこむと、スイッチを入れて大きく伸びをし、再び寝転がった。
 空は実に晴れていて、いい洗濯日和だ。青空と、流れる雲、硝子戸を空けたために風で緩やかに揺れるカーテン、懸命に働く洗濯機を眺め、浴室から聞こえてくる水音を聞きながら舟を漕いでいた。
 ほどなくして足音が近くまで寄り、濡れた手が髪を弄る。
「なに?」
「別に、寝てんのかと思って」
「ちょっとだけ寝てた」
 碌に体を拭きもせず、全裸で俺の側に座っている姿は異様なものがあるが、少なくとも不愉快ではなかった。
 フロック相手ならどうにか我慢も出来て、実際こうして発情も収まり、動き回る時間も確保出来るようになる。体の気怠さにしても家で延々と悶えているよりは余程いい。
「服くらい着ろよ……」
「うん」
 俺が咎めれば、フロックは水滴を落としながら立ち上がり、体を拭いてクローゼットの中から服を出して俺の服に着替えだした。フロック自身の服は昨日着ていたスーツやワイシャツ。働いた後で着たまま性行為に没頭していたのだから改めて着たくはないんだろう。
「後で洗濯機貸してくれ」
「いいけど……、何洗うんだ?」
「スーツ。最近のは洗ってもそこまで崩れねぇよ」
 余程の事がない限り、概ねクリーニング屋に任せていた俺には衝撃の一言だった。洗剤や柔軟剤はどれがいいのか、干す際のやり方などを事細かに問い質していく。
「んー、専門店とかオーダーメイド品なら兎も角、どうせそこらの服屋に吊るしてある安物だしな。お洒落着洗いの洗剤で洗濯して、駄目になったら変えればいいくらい意識だよ」
 何十万もするような特注品であれば確実にプロに任せた方がいいのだろうが、言われてみれば確かに。自宅で洗濯出来るならそれが一番楽で、クリーニングに持って行く手間も、待つ時間も必要ない。
「そっかー、目から鱗」
 クッションを抱いたまま、壁に吊るしてある自分のスーツを見て、俺も試そう。と、思い立ち、洗い終えたシーツや敷きパッドをベランダ一杯に干すとフロックの物と一緒にスーツをセーターや、薄手のワイシャツを洗うために買っておいた洗剤と放り込む。
 日光がベランダに干した諸々で遮られ、真っ暗ではないが水気が増して薄暗くなった室内。玄関を開放して適当に昼食を作り出す。
「ラーメン味噌と塩あるけどどっちがいい?」
 半端に残っていた野菜を炒め、お湯を沸かしながらフロックに声をかけたが、俺が使っていたクッションを枕にして今度はフロックが眠っていた。如何にも精力が枯渇しているような状態に、昨日を思い返して面映ゆくなりつつ、ラーメンは勝手に全部味噌にして、二玉ほど煮込んでいく。
 お湯が沸く時間も併せてたった十五分ほど。出来上がる頃には匂いに反応したゾンビのような動きで起き上がり、寝惚けながら目の前に置かれた野菜たっぷりの大盛ラーメンを食べていた。
「美味い?」
 小さな動きで頷き、フロックは麺を啜って野菜を口にする。

 吹っ切れたような切れていないような。もう少し様子見かな。
 八割ほどの麺はフロックにやり、俺は主に野菜を食べた。こいつの食欲は相変わらずだから多くても大丈夫だろう。なんて考え、美味しそうに食べる様子を目を細めながら眺めていた。

   ◆ ◇ ◆ ◇

 仕事のやり方も覚え、フロックは以前とは見違えてやる気に満ち溢れているように見えた。
 はっきりとものを言い過ぎるのはいつもの事だが、上司受けや取引先の対応も悪くはなく、雨降って地固まる。とでも表せばいいのか、必要な資格の勉強も頑張り、自立心も出てきて俺が教える事もほぼなくなっていった。
 後は俺に見切りをつけてくれれば全て良い方向に行くだろう。そう思うのに、未だフロックは俺と一緒に帰るし、食事をして、発情期でもないのに体に触れてくる。
「フロック、待て!風呂……、ほら、風呂入ってないし……!」
 帰ってきて早々にフロックに盛られてしまい、風呂を言い訳に制止をかけるが聞いては貰えない。夏真っ盛りの今、汗を掻いて絶対に臭いはずなのだが、胸元に顔を埋め、すんすん匂いを嗅いで嫌に興奮しているようだった。
「別にいい、気にしねぇし」
「俺が気になるんだけど……」
 残念ながら言い分は聞いて貰えず、結局、行為後に風呂に入り、出てみれば部屋が煙草臭かった。ベランダに出てから吸ってはいるが、俺が全く吸わないため直ぐに解ってしまう。
 暫く吸っている様子はなかったが、頑張っているだけに心労も多く溜め込んでいるのか、再び吸い出してしまったようだ。携帯灰皿を持ち、ベランダや、ここに吸殻を捨てていくような真似をしないだけ良識はある。
 時計を確認すれば、既に八時を回っていたが、小腹も空いているだろう。と、適当にパンを焼き、オムレツと、簡単なスープを作ってフロックを呼ぶ。
「まだ他に食べたいなら、出前か、インスタントでいいならカップ麺もあるけど、どうする?」
「お前の作ってくれた奴でいい」
 フロックは出された物を黙々と平らげ、食べ終われば調理器具や、食器を俺の分も含めて片付けてくれる。
 こういう優しさを他の人に見もせて仲良くすればいいのに。確実に社内でフロックの評価は上がっているだろうし、秋波を送ってくるベータ女性も居るのに。
「お前って鈍感なタイプ?」
「あ?」
 一瞬で不機嫌な面持ちになったフロックが、俺を睨んで『お前に言われたくない』と、言い返してくる。しようとしている話に俺は関係ないのに。
「お前の事、いいなー。って言ってる子が居るのに、全然気づいてないみたいだし……」
「なんで俺がそいつを気しないといけないんだよ」
 何故。
 俺がフロックに幸せになって欲しいからだが、フロック自身にも好みがあるだろうし、性格の合う合わないもあるから、単純に考え過ぎても駄目か。自分の経験からしても、必ずしも誰かと添う事が幸せでもない。自然と誰かに気持ちが向くのを待った方がいいのか。
「今は仕事が楽しい感じか?」
「そうだな、充実はしてるんじゃねぇの?下半身も誰かさんのお陰でいつもすっきりしてるし」
 何やら下品な会話になってしまった。
 しかしながら、こんな関係は俺自身が持ちかけたのだから仕方ない。妊娠に関しては、案を出した時以外はコンドームを着けてくれるようになり、俺もオメガ用の避妊薬を飲んではいるからフロックの恋の障害になるような事はないはずだ。
「ならいいんだけど……」
「けどなんだよ」
「噛みつくな」
 他意はないと伝え、俺が歯を磨いたりしていれば、フロックも隣に立って寝る準備をし始めた。帰ってからあれこれやるのが面倒なんだろうが、すっかり第二の自宅とばかりに居付いている。
「んじゃ、また明日な」
「またな」
 上階に戻るフロックを見送り、ベッドで眠り、朝が来る。
 時に泊まる事もあるが、概ねこの繰り返し。

 頑張っているからには俺と違って転勤も持ちかけられるだろう。
 土地が移れば新たな出会いもあり、関心も他に移って今は過去になっていく。そうなれば、精神的外傷や、一時的な勘違いも解消されていくに違いない。フロックにはこれで良かったんだ。多少危うかったが今回は間違っていないはず。
 窓を開け放ち、換気をしていれば微かに残っていた煙草の匂いを鼻が捉える。煙草は体に悪そうだから止めた方がいいとは思うが、流石にそこまで口を出す権利はなさそうだ。と、首を撫でつけた。

   ◆ ◇ ◆ ◇

 一ヶ月。
 二ヶ月。
 三ヶ月。

 面倒は間々あったが、問題はなく過ぎて行った月日。
 夏が終わり、秋に差し掛かってきたこの季節。俺にとって憂鬱の毎日がやってくる。
「きつそうだな」
「まぁ……」
 体が焼き付いてくる不快感を感じながら、フロックの何気ない言葉に溜息を吐いた。発情期が来たからと言って、二人で同時に会社を休む訳にもいかず、俺は体調不良で休み、フロックは当たり前に会社に出社し、業務終了後に部屋へやってくる。
 その間、碌に効かない薬の副作用と、気持ちの悪い体の熱に俺は耐えていなければならない。

 合い鍵を使って部屋に入り、ベッドに横になっている俺をフロックは見下ろしている。以前のように、混乱して挙動不審になるような事はない。半端とは言えどフェロモン酔いも薬で抑えられているため、まだ冷静でいられる部分は残っているようだ。
「やるか」
 言葉短に呟き、フロックは乱雑にスーツを脱ぎ捨て、俺に伸し掛かってくる。フェロモンに中てられているせいか、コンドームを着ける間も惜しいのか焦ってしまい、装着に失敗していた。
「ゴムつけなくていいか?」
「駄目」
 爪に引っ掻け、破れたコンドームを俺に見せながらフロックは訊いてくるが、体を丸めて拒絶する。決して子供は嫌いではないが、子作りはしたくない。
 以前は勢いもあって独りで育てる決意が出来たが、俺が欠陥なせいで可哀想な目に遭わせた。同じ過ちは繰り返したくないし、万が一、きちんと産めたとしても不自由なく育ててやれる自信はない。
「しゃーねぇな……」
 実に面倒そうにではあるが、新しいコンドームの袋を開け、フロックがつけてくれる。本当に優しいな。前の男だったら、俺が嫌がろうが問答無用だったから。
「付き合わせて悪いな」
「別に」
 フロックが深呼吸をして俺に覆い被さり、いきり勃ったものを俺の中に押し込んでくる。
 俺の体は雄の侵入に直ぐに反応し、悦びに打ち震えるが如く快楽を全身に伝えてきた。背を丸め、足を縮めて快楽の波に耐えるように奥歯を噛み締めるが、激しく揺さぶられて直ぐにそんな余裕はなくなり、酸欠の魚のように唇を戦慄かせ、フロックの背に爪を立てる。後から冷静になれば、怪我をさせて申し訳ない。と、言えるが、この時は啼いて泣いて目の前にある体に縋るしか考えられなかった。

 行為の最中、頭を占めていたのは『物凄く気持ちがいい』のみ。
 嫌悪の方が強かった性行為の心地好さが衝撃で、はしたなく夢中になってしまった。俺も、いい方に変わっているのか。
「ジャン……」
 熱っぽく上擦った声で名前を呼ばれると、胸の奥が切なくなり、俺はより強くフロックを抱き締めた。そして、お陰で今回の発情期は休日中に終了。体力の消耗はあれど不調はなく元気に出社出来た。

 フロック様様か。
 今日は、体力を取り戻すためにも肉を食べよう。
 フロックは美味しければ何でも食べるだろうし、色んな肉や部位を買っておこう。そんな事を考えながら、体の調子が良かった俺は、浮かれつつスーパーへ向かったのだった。

   ◆ ◇ ◆ ◇
 
 季節は巡り、秋の発情期も問題なく終えて俺は機嫌が良かった。
 その日は家での調理が面倒で、美味いと評判の焼き肉屋へ二人で行き、雑談をしながら食事をしていた。

「お前、転勤断ったんだって?なんで」
「まだここでやりたい事あるから」
 様々な経験が必要として、大きな会社で昇進を目指すならば海外赴任や転勤は必須だ。
 俺自身、転勤は一度も経験がなく、それ故に昇進には縁がない。しかし、フロックの場合、断ってまでやりたい事が俺には察せず、訊いてもフロックははっきり言わずはぐらかしてきた。
 まだ若いから、あちこち動きたくない気持ちもあるのか。勝手にフロックの心の中身を想像し、また勝手に納得していた。

 更に月日が過ぎて、春も問題なかった。
 その次の夏も。可笑しくなったのは、秋ごろに来る発情期を終えて一ヶ月ほど経った後。
「顔色が随分悪いけど例の風邪?大丈夫か?」
 比較的仲のいい同僚に声をかけられ、上手く愛想笑いも出来ずに空笑い。ここ数日、どことなく気怠い微熱が続き、頭痛がして苛ついたり、暴飲暴食もしていないのに胸やけで吐き気がしていた。市販の風邪薬を飲んでも効果がなく、具合の悪さに辟易するばかり。
「病院行っとけば?今日はそんな忙しくないしさ」
「そうさせて貰おうかな、飯も食えないから本気できつくて……」
 同僚に促され、早退届けを出して帰宅準備をしていれば、フロックが俺を見詰めていた。
「大丈夫か?つきそう?」
「別にそこまで重病じゃねぇって」
 へら。と、笑い、会社を出ていつもの病院へ。
 今日はイェーガー先生か。注射は覚悟しておこう。無の境地になりながら問診を受けていると、なにやら先生の表情が芳しくない。
 眉間に皺を寄せ、俺の脈や目を診たり、聴診器を胸や腹に当てて音を聞いている。風邪ではなく、性質の悪い病気なのか。
「申し訳ないんですが、ここでは検査出来ないんで、紹介状書いて連絡しておきますから、別の病院に行って下さい」
 背中に冷や汗が伝い、緊張しながら紹介状を受け取って教えられた住所へと赴く間、絶望感が胸の中に広がっていた。ただでさえ、罰ゲームのような人生だと言うのに、良くない病気まで抱えてしまったら、俺はどうすればいいのか。

 スマートフォンの地図アプリで示される道程を歩き、辿り着いた場所に俺は首を傾げた。
 俺の目が間違っていなければ、個人病院らしい建物の入り口に置いてある看板には、『イェーガー産科』と、書かれていた。イェーガー先生と苗字が同じなのはどうでも良く『産科』の文字に視線が留まり、上手く理解が追いつかない。もしや、子宮頸がんなどの病気だろうか。腹を無意識に擦り、変な汗が顎を伝った。
「あの……、紹介されて来たんですが」
 恐る恐ると入り、受付で紹介状を提示すれば、中身を確認すらせずに診察室へ通され、丸眼鏡をかけ、もっさりと髭を伸ばしている医者に簡素な革張りのベッドに寝るように指示され、腹を捲られてエコーを撮られた。
「ん、っと、まだ解り辛いけど……、おめでとう。赤ちゃん居るね」
「えっ、そんな訳は……」
「身に覚えがないのかな?でも、エレンから聞いた感じじゃ、パートナーは居るんだよね?」
 馴れ馴れしい感じ。髭で分かり辛いが声は若く、先生の兄弟か親戚だろうか。それはこの際どうでもいい。大事なのはもっと別の事。
「ま、あ、ですけど、避妊はしてましたし……」
「セックスしてて百パー確実な避妊はないんだよ?子供作りたくないならしない事が一番の避妊」
 ぐうの音も出ず俺は黙り込み、一番回避したかった最悪の展開に眩暈がした。様々な注意事項を指導され、親子手帳を受け取り、目の前が真っ暗になりながら帰宅する。
「まじか……」
 何度手帳を確認しても、現実でしかない。
 『記念』との枕詞をつけて親子手帳に挟まれたエコー写真は絶望の象徴のようにしか見えず、手帳ごと座卓の上に放り投げた。
 産む?独りで?フロックに告げるべきか?いや駄目だろう。ならどうする?産むとしても働けない間の収入はどこから調達するんだ?そもそも俺に産めるのか?また死なせてしまう?いや、俺が殺すのか?またあんな思いをするのか。
 腹を抱えて体を小さく丸め、スーツに涙の染みが出来ている事にも気付かず泣いて、どれだけ時間が経ったのか、玄関が開く音に反射的に肩を揺らし、目を拭って視線をやればフロックが立っていた。
「具合どうだ?」
「あ、だいじょうぶ……、風邪」
 咄嗟に嘘を吐き、俺はフロックを見上げていたが、フロックは全く別の方向を見ていた。
「へぇ、最近は風邪でこんなの貰うのか?」
 フロックが手に取ったのは、俺が無造作に置いていた子供の親子手帳。慌てて取り返そうとしたものの、あっさり避けられ転びそうになった挙句、支えるように受け止められた。
「腹に餓鬼が居るのに暴れたら駄目だろ」
「ちが、違うから……」
「何が違うんだよ。予定より時間かかったけど、出来たんだろ?」
 へたり込んだ俺と視線を合わせながら、フロックはうっそりと目を細め、とても嬉しそうに笑いながら、鞄から紙を一枚取り出して目の前に広げて見せた。
「責任はとるから書いとけ」
 提示されたのは婚姻届け。フロックの名前は既に記入済みで、紙には少なくない皺がついている。
 少なくとも昨日今日から入れていたものではなさそうだった。
「なんで?」
「いいから書けよ」
 戸惑う俺を他所に、フロックは紙を床に置き、鞄からペンを出すと俺に握らせて、名前を記入するように要求する。
 何がどうなっているのか。手がぶるぶると震え、呼吸が可笑しい。
「フロック、俺、堕ろす……」
「させる訳ねぇだろ」
 笑おうとして上手く出来ずに引き攣らせた顔を向け、『堕ろすから、責任なんてとらなくていい』そんな俺の最低な発言をフロックは途中で止め、冷めた目で見下ろしてくる。
「妊娠しないようにする薬をプラセボに摩り替えたり、ゴムに穴開けたりしてた俺の健気な努力が無駄になるだろうが」
 フロックは何を言っているんだろうか。
 努力?と、俺が呟けば、俺が病院から貰って来た避妊薬と良く似た包装がされたプラセボをネット通販で購入し、せっせと薬箱の中身を入れ替え、コンドームも装着する前に傷をつけてわざと破れ易くしていたらしい。しかし、中々表れない妊娠の兆候に焦れて、寝ている間に中出しでもしようかと思っていた矢先だったそうだ。

 フロックは俺が想像もしなかった物事を語り聞かせてくる。
 寒くもないのに体の震えが止まらない。何が起こっているのか。フロックが何を考えてそんな真似を実行したのか全く理解が出来ず、何故。と、口にするのが精一杯だった。
「俺、アルファじゃないから完全なつがいにはなれないしな。試しにうなじ齧ったりもしたけど、なんにもならないだろ?なら逃げられないように孕ませるしかないと思って」
 駄目だ。
 やはり理解が出来ない。
 俺の頭が悪いのか、フロックが説明不足過ぎるのか。
「安定期だっけ?そのくらいになったら引っ越しだな。ここじゃ子育て出来ないし、お前の親御さんにも挨拶行かないと駄目だよな?」
「無理だ」
 独りで話を進めていくフロックに俺は首を振る。 
 機嫌が良さそうな素振りが一変して眉を顰めるフロックへ、俺は懸命に話した。幼い頃に受けた性的虐待も、親との確執も、オメガだと判明して自身に起こった事も、以前、出来た子供も俺の体が出来損ないなせいで流れた事だって話した。
 時に記憶の片鱗が感情を刺激し、吐き気が込み上げたが言葉が詰まりつつも話し、フロックはそれを黙って聞いていた。
「だ、から、俺は親になる資格もないし、なれない。無理なんだよ。この子だってきっと……」
「俺はお前を捨てたりしないし、腹も今は違うかも知れないだろ。ちゃんと病院行ってさ、検査して貰って確認しとこうぜ?な?あんま興奮すっと体に悪いらしいし、これは後でいいから寝とけよ」
 婚姻届けを放置し、フロックは俺を立ち上がらせ、ジャケットを脱がせるとベッドに横になるように言ってきた。先程までの威圧的で剣呑な雰囲気は完全に鳴りを潜め、首元や、スラックスを緩めたりと献身的な様子だった。何が起こっているんだ。

 翌日、フロックに大分叱られたが、出勤して仕事をしていた。
 具合の悪さは相変わらずだが、動けない訳でもない。
 気のいい同僚は未だに具合の悪そうな俺を気にかけてくれたが、病気ではない。と、だけ言っておいた。訝し気な視線を受け、居心地の悪さを感じつつ仕事をし、給湯室で休憩がてら自動販売機にあった新発売の缶コーヒーを飲んでいると、フロックに無言で取り上げられ、麦茶のペットボトルを渡された。
「後これ」
 産休届の取得法、社内の規約をプリントした資料を渡される。
 他にも社会保険で申請すれば貰えるお金の事など、妊娠・出産関連の物が纏められており、俺が呆気に取られていると硬質な感触がする物を握らせて出て行った。
 手の中にあったのは銀色に光る指輪。薬指に嵌めてみるとぴったりで、フロックは本気で俺と婚姻関係になるつもりなのだと理解した。やり方には多大なる問題がありそうだが。

 一先ず指輪はジャケットの内ポケットに仕舞い、貰った資料は机に戻って鞄に仕舞い込んでおいた。

   ◆ ◇ ◆ ◇

「食いたいもんあるか?」
 定時になり、皆が退社していく中、立つ気力もなくぼんやりしていると、フロックが寄ってきて尋ねられたが、食べたい物と、食べられる物が違い過ぎて余計に食欲をなくしている状態だ。
 ならば。と、ファミリーレストランへ行き、俺が頼んで食べられる物は食べ、食べられなかった物はフロックが黙々と食べていた。
「豆腐って、こんなに美味い食い物だったのか」
 あっさりとした紫蘇ドレッシングがかかった豆腐サラダは問題なく食べられ、コーンスープも美味しかった。匂いで駄目な物、食べてみて駄目だったものをフロックはメモに纏めていたようで、帰宅すると紙を渡された。
「先風呂行く……」
 何故かフロックは自分の部屋には帰らずに俺の部屋に来て風呂に行った。重そうな胃袋を擦りながら。金は俺が出したが、頼み過ぎて最後辺りは流石に苦しそうに食べており、悪い事をした気分になってくる。メモはなくさないよう棚に仕舞い、出てくるまで待った。
 風呂から上がったフロックへ胃薬を渡し、入れ替わりにシャワーを浴びて先の未来を愁う。土曜になったら例の産科へ行き、もう一度検査をして貰い、きちんと産めるかどうかの相談をしてみよう。

 以前の流産が頭を過ったり、諸々の恐怖が噴き出して碌でもない事を考えたが、フロックがくれた資料を見たら様々な補助制度があるようで、万が一の場合、独りでも何とかなりそうな気もした。
 これといった趣味もなく、人に仕事を投げられて残業したりしていたのも幸いだったのか、確認したら思った以上に貯金もあった。
 今度はどうだろう。上手くいくのか。
「おい、倒れてねぇだろうな?」
 シャワーを浴びながら考え事をしていれば、思った以上に時間が経っていたらしく、外からフロックが声をかけてくる。
「あ、大丈夫」
 手早く頭や体を洗い終え、浴室から出るとフロックが扉の側に座り込んでいて驚く。
「ん……」
「ありがと」
 フェイスタオルを渡され体を拭いて着替えていれば、なんだかやたらとフロックの視線が煩く、俺がケトルに水を入れ、紅茶でも飲もうとすると、またフロックが俺に麦茶のペットボトルを差し出してきた。常温で温い。
「カフェインは良くないらしいぞ」
 フロックなりに調べているのか、妊娠している体にカフェインは良くない。そう書いてあったと熱弁された。なのに俺がコーヒーを飲むわ、紅茶を淹れようとするわで怒っていた。重いだろうにカフェインが入っていない麦茶を何本も用意している辺りは優しさか。
「あー、なるほど」
 スマートフォンでフロックが勉強していたらしいサイトを見せられ、妊体に『してはいけない』行動が羅列されていた。
 少々、厳しいと言うか、神経質になり過ぎな気もするが、流産経験がある癖に、俺の認識が緩すぎるんだろう。
「ちょっとは気にしろよな」
 俺がスマートフォンを見ている間、ぷりぷり怒りながらも水滴が垂れていた髪を丁寧にフロックが拭いてくれている。なんだかむず痒い心地だ。

 俺に、家庭など持てるのだろうか。
 髪をドライヤーで乾かしてくれた後、フロックが背後から俺に抱き着いて腹を擦る。
「ここに餓鬼が居るのか……」
「んー、そうだな、居るらしい」
 丸眼鏡の医者がエコーで見ていた映像は、正直俺には良く解らない黒い物体が蠢いているようにしか見えなかったが、居ると断言していたのだから居るのだろう。
 フロックは、エコー写真を見てもさっぱり分からん。と、ぼやきつつも、熱心に眺めている。

 病院通いは少々面倒ではあるが、二人のためにも頑張ってみようか。俺も腹を一撫でして、フロックがくれた常温の麦茶をコップに移しながら一口飲むと、美味しい気がした。

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