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馬房

小説は妄想と捏造甚だしい。 原作のネタばれ、都合の良い解釈。 R18、グロ(精神的にも)、暴力表現などが含まれます。 冒頭にざっと注意を書いてありますので、それを読んだ上での 閲覧を宜しくお願い致します。何かあればご連絡いただければ幸いです。 基本的に右ジャンしか書きません。 萌が斜め上です。無駄にシリアスバイオレンス脳です。 拙い文章ですが、少しでもお楽しみ戴ければ嬉しく思います。 右ジャン、ジャン総受けしか書きません。あしからず。

猫のお導き

・猫を飼ってるジャン
・モブに絡まれるジャン
・頑張るライ
※途中にモブが小動物の虐待、殺害(人間含む)描写があります
・ライの扱いと口が悪いベルさん
・ややモブさんが出張ります
・鈍感ジャン君
・まだライ⇒⇒⇒⇒⇒←ジャンくらい
なんか四年前くらいに書きかけで放置してたのに追記した。



J
 ぴこ。
 仕事を終えて自宅のソファーで寛いでいる最中、メッセージが送られてきた事を告げる軽快な単発の音にスマートフォンを手に取れば、思いがけない人間からの連絡で、ジャンは思わずじっくりと名前を眺めてしまった。
 表示されている名前は『ブラウンさん』。半月ほど前、独り寂しく飲んでいたバーで出会い意気投合。酩酊寸前まで呑み、酔った勢いで連絡先を交換した男だ。
 以降、特に相手からの連絡はなく、ジャンからも会話の切っ掛けとなる言葉が思いつかず、このまま一期一会の出会いで終わるのだと感じていたが、一体何の気紛れか連絡が来た。
 幸運の壺や装飾品。やたらと高いだけで使い勝手の悪いフライパン。薬事法など知らぬとばかりにアレルギーや癌が治ると謳う胡散臭いサプリメントの勧誘だったらどうしよう。
 ほんの数秒悩んでは見たが、妙な勧誘であれば黙って着信拒否をしてしまえばいいだけだ。幸い連絡は電話ではなく、文字で綴られたメッセージ。落ち着いて考えながら返信が出来る。
「よし……」
 謎の緊張から湧いた唾液を呑み込み、ジャンはスマートフォンを握り締めた。
 大学への入学を機に独り暮らしを始め、新社会人となってからは頼れる年上の親友とも離れ離れになった。独りでも頑張る。流されない。騙されないよう心に誓いながらジャンはメッセージアプリを起動し、内容を確認する。
『こんにちは。キルシュタインさんは猫を飼ってらっしゃいますか?』
 覚悟を決めて見たメッセージにジャンは首を捻って目を瞬かせた。
 確かにジャンは猫を一匹飼っている。自身の膝の上で伸び伸びと眠る茶虎の猫を見てから『こんにちは、一匹、飼ってます。』と、写真付きで事実のみを返信した。
『やっぱりそうだったんですね。昨日の深夜に、その子からにゃーにゃーと電話がありまして』
 口元に手を当てた笑いを堪えているような絵文字を末尾に着けたメッセージが直ぐに返って来てジャンは仰天する。
『どういう事ですか?』
『夜中の三時頃ですかね?貴方から着信が来て、出たらにゃーにゃー電話口で鳴いてるから、最初は何の悪戯かと思いました』
 仔細を尋ねて一気に肝が冷えた。通話履歴を確認すれば、確かに昨夜の深夜三時頃に電話をかけている。やはり末尾に大笑いをしているような可愛らしい絵文字がついている辺り、怒ってはいなさそうだが、夜中に他人を叩き起こしてしまったのだ。
『すみません!画面にロックをかけてないので、恐らく猫が踏んで反応したんだと思います。ほんとうにすみません。真夜中に電話するなんて、申し訳ないとしか……、これからは画面ロックをかけておきます』
 確実に、一方的にこちらが悪い案件だ。
 ひたすらに平身低頭、ジャンは慌てて書いたせいか、何度も謝罪の言葉を繰り返すメッセージを送ってしまった。
 事の経緯を推測するに、床に放置していたスマートフォンを猫が踏み、タッチパネルが反応して起動。そして、猫が動く画面に反応してじゃれた挙句に、通話履歴からリダイヤルか何かをしてしまったのだ。連絡先を交換する際、電話帳に登録するからと一度、電話をかけて貰った事が招いた事故とも言える。
「何してんだよお前……」
 猫を叱っても仕方がないとは思いつつも言わずにはおれず、寝ている猫を指で突けば、せっかく寝ているのに邪魔するなと言いたげな低い鳴き声が返って来た。
『あぁ、別に怒ってるとか、そう言う訳ではなくて、気になったので連絡をしただけです。猫可愛いですね』
『こんな事、初めてで……、本当に何と言っていいか』
 ジャンは申し訳ない気持ちで一杯になり、返信する言葉もぎこちない。
 本当に怒っていないのか。文字だけでは中々判断がし辛いが、猫を褒めている辺り猫好きだったのか。
『ブラウンさんも猫がお好きなんですか?』
『好きですよ。見てるだけで癒されますし、どこを見ても可愛くない所がないって思うくらい。今は社宅に住んでるので飼ってませんが』
 口から無意識に、おぉ。と、漏れる。
 ジャンの経験則でしかないが、男性が猫好きを公言するのは珍しい。どちらかと言えば、猫よりも犬好きの割合が多く、男性同士で猫の話題で盛り上がるのは稀である。ジャン自身は、『この世にこれ以上、可愛い生き物は居ない』と、言って憚らないほどの猫好きで、ライナーの好意的な言葉に気持ちが浮ついた。
『良かったら今度飲みませんか?あのバーで。お詫びも兼ねて奢ります』
 同じものが好きと言う事実に連絡先を交換して良かったと感じ、浮かれた気分のまま会う提案をする。もしも、断られたらどうしようと少々の不安もあったが、返信はやはり好意的だった。
「へへ、新しい友達が出来るかも。ありがとな」
 今度の週末。日付と時間を確認してからジャンは、膝の上に寝ていた猫を撫で回す。
 仕様もない猫の悪戯から思わぬ切っ掛けが出来、猫好き仲間が増えて嬉しくて堪らずご褒美に大好物のおやつも上げた。
 ジャンが知るライナーは、身長があり、面差しが厳つくレスラーか、アメリカンフットボールの選手もかくやと言うほど体格が良い。一見しただけなら委縮して会話もままならなさそうではあるが、作る笑顔が人懐っこいと言えばいいのか、愛嬌があり気さくで人好きのする話し易い男だったとの記憶がある。
 一つの不安は、自身が嫌われないかだけだ。昔からジャンは口調がきつかったり、正直が過ぎて、いわゆる余計な一言が度々出てしまうため、あまり人付き合いが上手いとは言えなかった。折角出来た友達を失うのは悲しい。
 頑張って猫を被るか。
 いや、そんなものは直ぐに剥がれて余計に嫌われる要因を作りかねない。
 素の自分を受け入れて貰えるのか。
 怒らせてお気に入りのバーに行き辛くなっても困る。
 鳥のささ身を美味しそうに食べる猫を隣で眺めながら、ジャンは浮かれつつも頭を抱える。
 悩んだ所で結局はなるようにしかならないのだが、週末が不安で楽しみだなんて、社会人になってから初めてだった。
 ◆ ◇ ◆ ◇
R
 約束を取り付け、ライナーは快哉の声こそ上げなかったが、ベッドの上で拳を握り締め、ぐっと力を込めた。
「よっしゃ、頑張った俺」
 自分で自分を褒め、スマートフォンの画面を何度も眺めては口元が緩む。
 今年に入ってから行きつけのアンティークバーで見かけるようになった青年。カウンター席の隅に座り、酒を嗜みながらも店主と語らう事をせず、ぼんやりとグラスを眺めていた横顔がどことなく寂しそうで気になった。
 良く店を利用しているのか、週末に行けば概ね見かけた。店主も黙って酒を飲む彼に、無理矢理話題を振る事はなく、他の客も概ね独りの時間を愉しむか、連れと酒を嗜むような客層のいい店だ。
 度を越えて騒いだり、ナンパをするような客は極稀。やり過ぎれば店主が毅然とした態度で叩き出すためだ。故に、敢えてここを選んでいると言う事は、あまり交流は必要としていないとも受け取れたため、気になりつつも声をかける事はしなかった。
 そして、半月ほど前に見た際は珍しく連れが居た。最初こそ、友達と来たのかと考えたが、どうにも様子が可笑しい。
 笑顔こそ作っているが、気心の知れた友人に対するものと言うよりは愛想笑いにしか見えず、見慣れた店主の視線が二人を観察するような硬い表情だったせいもあって気を揉んだ。
 余計なお世話かとは思えど、席を二つほど空けたカウンター席に座り、耳をそばだてていれば、お前は何を言いたいんだ。と、尋ねてみたくなるような話を延々と一方的にしていた。
 聞き取れた範囲では、
 車が好きで良く自分でカスタムしてるんだ。
 走りも得意なんだぜ。
 俺の彼女は処女だったけど、俺と付き合うようになってからセックスが大好きになって誰にでも股を開くようになってさ。
 俺としてからだよ。凄くねぇ?
 聞き取れたのはこのくらいだが、何を伝えたいのか意味不明だ。
 酔っぱらい、彼女の不貞を嘆いているのかと言えばそうでもなく、男はへらへらと笑い、時ににやついていた。見た様子だけで言えば強がっているだとか、開き直って他人に絡んで憂さ晴らしをしている風にも感じられなかった。
 相槌を打つばかりのジャンに気を良くしたのか、男は壁際に座っている彼を徐々に追い詰めていき、肩や背中へと接触しだしたため店主と目配せし合い、頷いた事を確認してからライナーは立ち上がった。
「すみません、その人俺の連れなんですが、絡み酒なら止めて貰えますか?」
「は、え、なにあんた?」
 男は戸惑いと苛立ちをありありと顔に浮かべ、ライナーを睨め上げたが、睨み返せば威圧感に屈してすごすごと逃げ出した。無駄に厳つくなった顔と体格が役に立つと感じるのはこういう時だ。
「大丈夫ですか?」
「あ、ありがとうございます。どうしたらいいか解んなくて……」
 酒を嗜む成人男性に使うには不適当かも知れないが、眉を下げて力なく笑う表情は儚げで、ライナーの庇護欲を掻き立てるに十二分の効力を発揮した。無礼な男を追い散らした後は紳士ぶって去るつもりだったのだが放っても置けなくなり、つい隣に座ってしまった。
「どうぞ、落ち着きますよ」
 運動で鍛えた体躯を覆うかっちりと糊の効いた白いカッターシャツを着て、黒いスラックスに革靴。長い脚の足首まで覆う長さのソムリエエプロンを身に着けた店主、ライナーの親友がジャンへと温かいココアを出し、甘さのある色気を持った垂れ目を細め、柔和に微笑んで見せる。
「え、あ、ありがとうございます」
「僕からのサービスです。気疲れなさったでしょう?」
「ありがとう……」
 けしからぬ輩を追い払ったのは自分なのに、いいとこどりをした親友のベルトルトへ口角を下げて視線で不満を伝えれば、返って来たのは片眉を器用に上げ、面白そうに笑う皮肉気な笑みだった。
 ライナーが以前からジャンをそれとなく気にかけていた事に気付いていたのだろう。何も見ていない振りをして目敏いベルトルトへと舌こそ打たなかったが威嚇するように歯を剥いて見せる。子供のようなやりとりだが、気の置けない親友だからこそ出来るものだ。
「おいしい……」
 疲れ切った体と心に沁みたのか、ジャンがココアを飲みながら、今にも泣きそうな表情でぽつりと呟いた。
「だい……」
 いや待て。また大丈夫か?は不適切だ。
 他人を無下に出来ない気の優しい人間ほど、相手に心配をかけまいと『大丈夫』と、反射的に返してしまうもの。交流の浅い相手ならば尚更。それが解っているからベルトルトは余計な事を言わず、気持ちを落ち着けるよう配慮したのだ。
「あー、えっと、あぁ言うのに良く絡まれるんですか?」
 デリカシーが足りない。と、往々にして注意を受けるライナーなりに考え直し、吐き出し易いように呼び水を向けてやれば、ジャンは視線を落としてココアをカウンターテーブルに置くと小さく頷いた。
「俺、目つきが悪いでしょう?態度とか、性格も生意気って言われ易くて、だからか……、やり込めてやろう。みたいな反感買い易いみたいで……、あの人は良く解りませんでしたけど」
 かなり大人びた容貌ではあるが、ジャンの雰囲気は老練とは言い難く、大学を出て社会人として歩み出したばかりの新人との予想がついた。入った会社で上手く行っていないのか、勝手に心配が募っていく。
「人を見下して優位に立つ事で気持ち良く成ろうって輩はどこにでも居ますしねぇ……」
 ライナー自身も、同じような経験がないでもない。
 今のような容貌や体躯になるまでは、何をやっても空回り、負けん気だけは強い泣き虫であったがために良く他人から揶揄われ悔しい思いをしてきた。喧嘩ばかりをしていたポルコとは、今でこそ幼馴染としての付き合いがあり、彼の不器用過ぎる優しさを知ったが、昔は自身を見下して悪口ばかりを言うポルコや学友が嫌いで嫌いで仕方がなかった。
 ただ、直接本人から聞いた訳ではないが、ポルコに限っては他の仲間とはつるまず、単独で真っ向からライナーに対していた行動を鑑みるに、彼なりにライナーを奮起させようとする応援だったのか。とも思えない事もなく、過去のわだかまりを捨てて今がある。他の便乗犯は判らないが。
「ありがちな事しか言えませんけど、嫌な記憶は楽しい記憶で潰してやりましょう。これも何かの縁ですし奢りますよ」
「え、悪いですよ」
「気にしない気にしない。ベルトルト、チョコレートリキュールの酒を何かくれ」
「解った」
 親し気に名前を読んで店主と話すライナーに驚いたのか、ジャンは目を丸くして何度もライナーとベルトルトを見比べていた。幼馴染だと言えば納得し、出されたチョコレートカクテルを飲んで、美味しいです。と、朗らかに笑う。
 ジャンは笑うと切れ長な目元の険が消え、一気に幼さが出て精悍さよりも愛らしさが出て可愛いと思った。勧められるままにカクテルを飲み、酔いが回れば笑い上戸なのか、くすくす笑いライナーを癒してくれ、慰めるつもりが慰められていた。
 話も中々に弾み、連絡先の交換も快く受けて貰えて最高の夜だった。
 が、
 その後、謎の緊張で連絡が取れない日々が続き、歯痒い気持ちになった。
 いざ連絡しようとすると、言葉が何も浮かばない。
 気軽に飲みに行きませんか。で、いいだろうとは思うが、断られた場合を考えると心臓がきゅっと縮む。かなりの重症だ。もたもたとしている間に時間は過ぎていき、あっと言う間に半月が経ってしまった。
 このまま連絡も出来ないままなのか、人知れず落ち込みながら仕事に疲れて眠っていた深夜。枕元に置いていたスマートフォンから大音量の着信音が鳴り響き、叩き起こされてしまう。
「な、なん……」
 寝惚けた頭を懸命に奮い立たせ、名前を確認すれば『キルシュタイン』の文字が輝いていた。もしや、どこかで呑んで気分が良くなり、連絡をしてくれたのか。ライナーは一気に頭が覚醒し、通話の許可をタップする。
「はい、ブラウンです」
 声は緊張で硬かったが、まだ交流の浅い相手だ。然程可笑しくもない。逸る鼓動と呼吸を押さえながら返事を待つ。しかし、にゃああああああああ。聞こえてきたのは不可解な鈴を転がすような可愛らしい猫の声。仔猫の声ではないが、高く透き通った鳴き声だ。
「キルシュタインさん……?」
 一体何の冗談なのか。
 恐る恐る名を呼んでみるが、返ってくるのはみゃあ~。との間延びした鳴き声。ライナーの声に返事をしているようだ。
「実は正体は猫でしたとか?」
 あるいは、妙なファンタジー漫画宜しく、体が猫になってしまって助けを求めているだとか。
 問いかけてもにゃあん。と、返ってくるばかり。がつ、ごとん。そんな硬い物が転がっている音までする。現実的に考えて、ジャンの飼い猫だ。電話をかけて来た方法は謎であるが。
「それで遊んでて大丈夫なのか?」
 ジャンのスマートフォンを玩具にして遊んでいるようで、ライナーの声に返事をしながら音は激しくなっていく。
『何してんだよお前、それ玩具じゃねぇし……」
 寝惚けた様子のジャンの声が聞こえ、猫を抱き上げたのか、んみゃ。との声を最後に遠ざかって行った。通話状態になっている事には気づいていないようだ。かなり転がしまくっていたようだから、タッチパネル部分は床に伏していたのだろう。
 どんな猫だろうか。
 相当な悪戯者と見たが。
 だが、これで連絡するための理由が出来た。
 飼い猫がしでかしたとなれば、誘いも断り辛くなるだろう。ジャンの良心に付け込むようで心が痛んだが、切っ掛けは切っ掛け、進まなければ何も起こらない。
 切り出すための言葉は何と送ろうか。
 久しぶりに、気持ちが弾んで眠れぬ夜を過ごしたライナーであった。
   ◆ ◇ ◆ ◇
J
 猫の悪戯を切っ掛けに、ライナーとは急速に親密になって行った。
 約束した週末に馴染みのバーで顔を合わせれば思っていた以上に会話が弾み、酒による気分の盛り上がりも手伝ってジャンはライナーを自宅に誘った。
 ライナーは猫の扱い方も上手く、猫も懐いてくれたため好感度はより上がり、定期的に連絡を取り合う仲になったのだ。
「ヴァルー、ライナーさんが来たぞー」
 ジャンが名前を呼びながら玄関を開けると猫が器用に内扉を引いて開け、んなー。と、鳴きながら寄って来る。正式な猫の名前はブッフヴァルトなのだが、長ったらし過ぎて、今や呼び易い真ん中部分を抜粋して呼んでしまっている。ライナーは更に縮めてヴァー君。などと呼んでいる始末だ。
 猫がきちんと自分の名前を憶えているかは実に怪しい。しかしながら、呼ばれているとは認識しているのか、声をかければ返事をして寄って来るのだから可愛らしい。
「スーツが毛だらけになりますよ」
「コロコロするんで大丈夫です」
 猫の癖に二足歩行で立ち上がり、脚に手を置いて抱っこをねだるブッフヴァルトをライナーが抱き上げ、表情を崩して撫で回す。ぐるぐると、隣に立っていても聞こえて来る小気味の良い音。飼い主意外に甘えやがって。と、ジャンは少々やきもちを妬く。
 ブッフヴァルトは抱っこに満足したのかライナーの腕の中から出たがり、スーツに爪を立てながら肩に登っていく。
「あ、こら!」
「大丈夫ですって、きちんと爪切ってあるんでしょう?」
「そうですけど、俺もそんな細かい方じゃないんで偶に伸びてるのがありますし、切ってても引っ掛かったら……」
 高そうなスーツに傷をつけないかジャンは冷や汗を掻き、手を上げ下げしつつ成り行きを見守っている。
「その時はその時ですよ。スーツで猫に会いに来た俺が悪いってだけで」
 肩に乗って頭を擦り付けて来るブッフヴァルトを落とさないように少々背を丸め、ごつい手で撫で回すライナーは、本当に猫好きなのだと感心するほど寛容だった。
 長々と立ち話もどうかと思い、ジャンは台所が併設された短い廊下を歩き、ワンルームのへの扉を潜る。
「珈琲でも出しますから、座ってて下さい」
 電気を点け、いつまでも玄関から動かない一人と一匹を促し、ジャンは苦く笑う。
 ブッフヴァルトは飼い主よりもライナーに懐いているのではないか。と、感じてしまうほどの懐きっぷりである。長い尻尾をぴんと立てて小刻みに震わせながら出迎え、甘えた声で抱っこを催促し、尻尾を絡めて擦り寄り、いつまでも離れようとせず、くっついている。
 ジャンが湯を沸かし、珈琲を淹れている最中も当然のようにライナーとブッフヴァルトは仲良く遊んでいた。元々、構って欲しがりな気質はあったが、あそこまでとは想像もしなかった。面倒見が良く、構い上手なライナーと構って欲しがりで、甘え上手なブッフヴァルト、お互いが性質が合致した結果なのだろう。
「遊んで貰ってすみません」
「可愛いので大丈夫です!」
 そう言うライナーの目は輝いており、手に猫をじゃらす玩具を持っていても微笑ましく見えるほどだ。
「そんなに好きなのに、自宅では飼ってないんですか?」
「仕事柄家に帰れない事もあったり、母親がアレルギーだとかを気にしたり、その……、勝手をする動物を嫌がる人だったものだったので」
 苦笑しつつも母親の評価を下げ過ぎないよう言葉を選びながら話しているが、少ない情報からでもライナーの母親が神経質な人間であり、あまり気儘な動物を好まないのだろうとは伝わって来た。聞くに、一人暮らしではあるそうだが、今でも月に一度は母親が尋ねて来るため、飼いたくても飼えない状況であると察せられる。
「まー、うちのヴァルで良かったらいつでもどうぞ」
 インスタントの珈琲が入ったマグカップを座卓に置き、遅くはなったが上着を受け取ってハンガーに着せ、壁のコート掛けに引っ掛ける。これで上着は無事に済むが。
 ジャンはちら。と、遊び疲れて胡坐を掻いたライナーの膝の上で丸くなっているブッフヴァルトを見て、スラックスを引っ掻かないか気を回す。会うのは概ね仕事帰りの夜。スーツを着ている事は、もうどうしようもないため、出来得る限り被害を最小限に済ませる対策は早めに脱いで貰う以外はない。
 だが、ブッフヴァルトが直ぐ様、ライナーに飛びつき、甘え出すので最近はそれも難しくなってきた。本人が気にしないと言っても、飼い主としてはどうしても気になってしまうのだ。
 目を細めながら、優しく猫の毛を指で梳くライナーを見て、手を打たねばと、ジャンは頭を悩ませる。話の合う友人と過ごす時間は好ましく思っている。不安材料は出来得る限り排除したい。
 ブッフヴァルトへの土産を貰い、終電前にライナーはご満悦で帰っていった。
「んー、どうすっか」
 背伸びをしながらジャンは悩む。
 今の関係は飲み仲間かつ猫好き仲間。
 休日に示し合わせて共に遊びに出るほどでもなく、わざわざ会社帰りに私服に着替えて来てくれ。とは言い辛い。ならばどうするか。が、課題である。
 遊び疲れて自分専用のベッドで寝息をぷすぷす立てながら寝ている愛猫を眺めながら、ジャンは考え込む。
 ジャンは一つ欠伸をして、寝巻を漁っている内に妙案が浮かぶ。少しばかり手間はかけてしまうが、スーツが毛だらけのぼろぼろになるよりは良いと考えて貰う他ない。自らの案にジャンは機嫌良く短い廊下を歩き、台所と対面している浴室へと入って行った。
   ◆ ◇ ◆ ◇
R
 猫のお陰で切っ掛けが出来、ジャンと縁が持てた。
 バーで猫話が盛り上がり、良かったらうちに来ますか?そう訊かれた時は、天にも昇るような心地になったものだった。
 ジャンの飼い猫、ブッフヴァルトも最初こそライナーを警戒し、耳を伏せて睨みつけて居たが、あっさりとささ身のおやつで懐柔出来、あまりの簡単さに笑いを堪え切れなかった。
「お前チョロ過ぎだろ」
 夢中でささ身にがっついた挙句、もっと欲しかったのか先程まで警戒していた相手に頭をぶつけ、甘ったれた声を出して媚びる姿に飼い主すら呆れていた。だが、お陰でジャンとはより親密になり、週末には連絡を取り合って時間が合えば毎度、自宅を訪問する仲になれた。猫様々である。
 ほぼ毎週、連絡を取り合い、都合が良ければ軽く呑んでから猫への手土産を持参してジャンの自宅へと赴き、ジャンと猫、双方に癒されに行く機会が頓に増えた。猫は当然の如く可愛く、酔ってふにゃふにゃと笑うジャンも可愛い。
 一九〇センチの男に使う言葉として相応しくはないのだろうが、可愛いものは可愛いのだから仕方がないのだ。会えば仕事の疲れが急速に解れていく。殺伐とした現場に居る事が多い身で、素晴らしいほどの安息の地を得た。体調まで良くなり、一人でバーに行けば親友である店主、ベルトルトにも最近随分機嫌がいいようで。と、揶揄られるほど。
「おい、ブラウン、ぼさっとすんな!吐くなら外だ。げろ吐いてゲソ痕駄目にしたらただじゃ置かねぇぞ!」
「だっ、大丈夫です!」
 先輩にどやされ、ライナーは、現場の凄惨さを目の当たりにして揺らいでいた意識を叩き起こす。
 どす黒い血に塗れた寝室。発見が遅れたためだろう、ベッドに横たわった異臭を発する人型の溶けた肉の塊を眼下に納め、腕で口元を覆いながら、観察をする。
 異臭騒ぎからの死体発見。一軒家の周囲はパトカーと野次馬で溢れ返り、現場に集まった制服警官、検視官や刑事でごった返していた。
 室内に充満した臭気と熱気は否応なしに鼻や胃や刺激し、吐きそうになってくる。死に対する本能的な嫌悪だろう。湧いた酸味のある唾液を飲み下し、吐き気を堪える。こればかりは、いつまで経っても慣れる物ではないようだ。
「うわー、可哀想に……、ペットまで殺さなくてもなぁ……」
「怨恨かねぇ、坊主憎けりゃって言うじゃん?」
 現場を散策中、検視官の会話が気になり見ている物を覗き込めば、小型犬だろうか。小さな犬が黒く固まった血溜まりの中でばらばらになって死んでいた。
「ブラウン、訊き込みに行くぞ」
「現場、大分荒らされてましたね」
 遺体がある寝室から廊下に出て、幾分ましな空気を肺の中に取り込んでから、ライナーが端的に屋内の現状を口にすれば、先輩は悩まし気に呻いた。
「ついで、かもな」
「ずたずたでしたもんね」
 死体の有様、飛び散った血液の量を鑑みて、一撃で。とは考え辛かった。
 飼っていた犬の有様を見ても、盗みは主の目的ではないだろう。犯罪を検挙するためには、余計な先入観や、固執は禁物ではあるものの、ある程度の予測は立てておいた方が動きやすくはなる。
「先ず、吠えそうな犬から、そして寝てる家主をめった刺し、って所かねぇ」
「犬が侵入した人間に気付かないって事あるんでしょうか?家主も起きてませんし、身近な人物の可能性も考えた方がいいかも知れませんね」
 刑事となって数年のライナーよりも場数を踏んでいるとは言え、先輩もあの臭気と惨状には来るものがあったようで、入る前よりも顔色は幾分青褪めていた。
 新鮮な空気に溢れた外に出て、周辺の聞き込み結果は『通りで、最近犬の鳴き声がしないと思っていた』が、大半を占めていた。同情の声は勿論あったが、それよりも、犬の鳴き声による騒音に悩んでいた近隣住民は多かったようで、殺された事に関しては不憫だが、『でも』が、ほぼ毎回ついてきた。
 どうやら、飼い主も傲慢で鼻持ちならない種の人間だったようである。
「こりゃ、騒音に困ってた近隣洗ったら速攻解決するかもな……」
 人気のない場所で、先輩が首を揉み解しながら独り言のように言った。ライナーも悩みつつ同意する。
 結果だけを言えば、被害者の裏手側に住む住人の息子が犯人であった。原因は騒音。毎日毎日、犬が吠え立てる声が耳障りで堪らず、警察に通報しても民事不介入となり何もしてくれない、溜まりに溜まった鬱憤が爆発したのだと供述した。役立たずのお前等のせいで俺は犯罪者になった。と、捨て台詞を吐いて。
「一日中ネットに齧りついてたら、あぁなるのかねぇ」
「さぁ……」
 陳述書を眺めれば眺めるほど頭が痛くなってくる。とても同じ人間なのか疑問になるほど。
 人間に媚を売る動物が嫌いに始まり、『皆』もそう言ってる。俺は間違っていない。何度忠告しても犬を処分しなかったあいつが悪い。
 皆、とは一体誰に事なのか、共犯者かとも考えて詳しく訊けば、インターネット上の顔も知らない相手。煩い犬の排除は正義と煽られた挙句に実行、『ついで』に迷惑を振りまく人間も排除。加えて言えば、死んだ人間が金を持っていても無駄。と、盗みもやったそうである。
 親は庇っているが、庇い方がどうにも見当違いで、別口で頭が痛い。息子は小さい頃に犬に噛まれて、犬が苦手で怖かっただけだ。苦情を入れても聞かなかったあの人が悪い。等々。
「利己的な人間同士の諍いが凝縮されたような事件だった」
「ですね」
 所内の喫煙所にて、先輩は煙草を咥えて深く息を吸い込み、長嘆しながら口から大量の煙を一度に吐き出した。ライナーは小さな丸椅子に浅く腰掛け、壁に凭れながら相槌を打っているだけだ。犯罪など、すべからく利己的なものばかりで一々議論する気も起きない。
 ニュースでこれがどう報道されているかなど興味もなく、テレビも見ていない。見る余裕がないほど精神が疲弊しているせいもあった。
 犯人のパソコンには、小動物を何匹も虐殺した動画や写真が大量に入っており、確認作業は胸が悪くなる一方だった。インターネット上で公開されていた画像をダウンロードしたものも多数あったが、本人が嫌いだからとわざわざ出向き、餌付けして連れ帰ってから虐待の果てに殺害する。まともな神経とは思えない。また、それを見て見ぬ振りをしていた親の心理も、理解するには悟りでも開かぬ限り無理だろうと諦めた。ただただ黙々と報告書を作成し、次へ進むしかない。
 ライナーはスーツの内ポケットの中からスマートフォンを取り出し、電源ボタンを押して現れた待受画面に目を細める。
 そこにはブッフヴァルトを抱えて笑っているジャンが映っていた。ブッフヴァルトの写真が欲しいとライナーからねだり、許可を貰ったはいいが、全くじっとしていない猫を撮るのは至難の業、手助けとしてジャンが抱きかかえて撮らせてくれたのだが、実に好いものが取れたとご満悦だ。
「なににやにやしてんの、彼女の写真か?」
 先輩が無遠慮にライナーのスマートフォンを覗き込み、つまならそうに溜息を吐いた。
「また猫か、好きだなぁ、お前も」
 そんなに好きなら飼えばいいだろう。とは先輩も言わない。
 この一か月、署の仮眠室で寝泊まりを続け、まともに自宅へは帰っていないのだ。飼いたくても飼えない現状は嫌と言うほど現場の人間は理解している。
「嫁さんは?」
「そもそもお付き合いしてる方が居ませんから」
 スマートフォンの写真を保存してあるフォルダを開き、焦って撮ろうとして連写してしまった写真をスライドさせながら何度も繰り返し眺めていた。
 遊び足りないブッフヴァルトを押さえようと困った顔で笑うジャンと、暴れたせいでぶれてしまい、最早、猫の形をしていない影。ジャンの柔らかな笑顔を写した物が最後にあった。
「お前の趣味をとやかくは言わんけどな、好きな奴が居たらさっさと告白しとけよ。ぐだぐだ理屈ばって考えて黙り込んでたら後悔しかしねぇぞ」
 経験談なのか、遠い目をしながら先輩が何本目か判らない煙草に火をつけ忠告をして来る。個人の事には踏み込まず、仕事以外での付き合いは無に等しいのだが、これだけは主張してくる辺り、相当な後悔が本人にあるのだろう。
「あー、友達のままがいい事も……」
「無理無理、それ自分の感情を誤魔化してるだけで、ぜってぇ限界くっから」
 言いながら、先輩は気だるげに煙を口から天井へ向かって吐き、表情は窺えない。
 ちくちく胸に刺さるのは、指摘が的を射ているせいか。
「確実に自分が相手の好みじゃない場合ってどうしたらいいんですかね?」
「好みなんて大概、曖昧なもんだぞ。好みと好きになる人が違うなんて有り勝ちだしな?」
 ライナーは既に煙草を灰皿に揉み消しているが、先輩は半分ほど吸っては消し、また火を点けている。相変わらず酷いチェーンスモーカーだ。
 警察組織一部である捜査一課。殺人を扱う仕事は真面目にやればやるほど神経を削る。何かに依存しなければ正気など保っていられない気持ちも解るため、ライナーは黙っている。
 それに、体に悪いなどと当たり障りのない事を口煩く言えば、合間にスマートフォンで猫の動画や画像を見ている自分を散々に茶化してくるだろうと容易く予想がつくため、言うに言えない側面もあった。
 ライナーが新人の頃から組んで数年の付き合いだが、互いに一線を引き、趣味も碌に知らない相棒である。
「さーて、一人寂しい家に帰るか―」
「っすねー」
 話は終わりと切り上げ、煙草を消して先輩は立ち上がり、倣うようにライナーも立った。
 外に出れば体が酷く煙草臭く、鼻の奥、毛穴にまで臭いが沁みついているようで、早く流したくて堪らない。疲れも限界でシャワーを浴びて、今直ぐにでも泥のように眠りたかった。
 ライナーの予定が崩れたのは、一通のメールのせいだ。
『お仕事お疲れ様です。今日のご都合はいかがですか?』
 ジャンからの連絡に、立ったままでも寝そうだった脳が一気に覚醒する。
 電車の中で通知を受け取り、休暇を台無しにするような事件の発生かと思えば嬉しい通知だった。ライナーは即、是の返信をすると、時間を取り決め、電車を降りて自宅に駆け込みシャワーを浴びる。
 いつものバーで、夜に待ち合わせ。
 待っている間も心が逸り、仮眠も忘れて真新しいスーツに着替えて親友の経営するバーへと向かう。
「まだ準備中ですよー」
「いいじゃねぇか、ちょっとくらい……、ほら、椅子降ろしとかテーブル拭くくらい手伝うし」
 時間は五時。
 バーが開くには早過ぎる時間帯である。
 掃除や、仕込み、酒の在庫確認などで既に店内に居る事は知っているため、押しかけた形になる。
 迷惑そうな面持ちを隠そうともせず、ベルトルトはライナーを睨み付けた。
「待ち合わせは何時?」
「余裕持って七時……」
 ちら。と、時計を見るベルトルトを直視出来ず、ライナーは頭を掻きながら、空笑いで誤魔化して見せるが通用する相手ではない。
「じゃあ、床掃いて」
 狭い店内、調理場からカウンター内までゆっくりやっても十分もかからないだろう。
 ライナーは箒を渡され、スーツ姿で掃除を始める。その間、ベルトルトはトイレ掃除をやっていた。
「掃いたらテーブルから椅子降ろして、拭いといて」
 ベルトルトはここぞとライナーを使い、在庫確認はとっくに済んでいたのか調理場に籠ってがさがさやっていた。
「お疲れ、夕飯もまだだろ?食べていいよ」
「あぁ、悪いな」
 テーブルを拭き終え、手持無沙汰になったライナーがカウンターに座っていれば、手頃なサイズのピザが目の前に提供される。
 勝手にカウンター内に入って手を洗い、再度座ると三角錐に切り分けられたピザをライナーは齧る。空きっ腹に染み渡る美味さだ。
「これどこのだ?」
「リーブス印の冷凍食品」
「買い溜めしとくかなー」
「料理出来るんだからすればいいのに」
「俺は家に居ない時間が長過ぎるから食材腐らせるだけだ。つーか、お前は練習しろよ」
「黒焦げと汚物が量産されるだけだよ」
 ベルトルトは料理が出来ないため、出したピザは市販の冷凍ピザにソースとチーズを適当に足しただけである。
 この店は、雰囲気と酒で売っているため、料理は二の次。摘み程度なら出すが、腹に溜まるものは然程置いていない。出て来たピザも予約や常連に頼まれた際に渋々出す物で、基本はベルトルトの食料となっている。
「潔いと言うか……」
「僕が作らなくても企業が努力してくれてるお陰で美味しいものは沢山あるから」
 ピザを指差しながら、ベルトルトは笑って見せる。
 全く試みなかった訳ではないのだが、あまりにも酷い物が量産され過ぎたが故に、労力に見合わないと切り捨て、ほとんど市販品で済ませているようだ。ライナー同様、気ままな独り身。誰に気兼ねする事もない。
「そんな事よりさ、あの人とはどうなの?」
「どうなのって、どうもねぇよ。友達だ友達」
「ふーん……」
 物言いたげなベルトルトの目つきを避け、ピザを食べ切ってコップに注がれた水を飲み干す。
 まだ一時間も経っていない。待っている時間が実にもどかしい。
「君がいいんならいいけど、かなりお人好しっぽいから、うかうかしてると誰かに盗られるかもね」
 誰を。とは言わない。
 昨夜、放って帰ったらしい使用済みのグラスをベルトルトは洗い、無言を貫き通してライナーに考える時間を与える。
 盗られる。
 内ポケットに入ったスマートフォンを握り締め、心臓がどきどきと落ち着かなくなった。
「その、誰か特定の人が居そうとか……」
「さてね、自分で訊けば?」
 意地の悪い物言いに表情、迷惑をかけられた意趣返しか。
 片鱗でもあったのか訊き出そうと躍起になるが、ベルトルトは答えてはくれず、誰も居ない店内で、仕様もない押し問答が繰り広げられるだけであった。
   ◆ ◇ ◆ ◇
J
 ジャンは短く声を上げ、ベルトルトのお疲れ様です。の、挨拶を会釈で受け取る。
「あの、ライナーさんはいつから……」
「二時間ほど前からですね」
 まだ店も開いていない時間から。
 カウンターに突っ伏して眠ってしまっているライナーを横目で見ながらジャンは眉根を寄せた。
 公務員とは聞いていたが、用事があって半休か何か取っていたのか。悪い事をした。疲れているのに無理をして付き合ってくれたのでは。悪い方に思考が流れ出し、このまま帰るべきかどうかジャンは逡巡する。
「ライナーさん何か飲んでましたか?」
「いえ、ピザと水くらいですね」
 ジャンはライナーが刑事である事は知らない。
 市役所勤務ではないだろうと当たりはつけていたが、だからとて、正確に当てられるほどの知識もなかった。
「疲れてるのに呼び出しちゃって悪いんで、ライナーさんの分、払います」
「戴けませんよ。受け取った事を知られたら、確実に怒るでしょうからお気になさらず。お支払いよりも、寧ろ、叩き起こして連れ帰ってくれた方がありがたいですね」
 ジャンはベルトルトの柔和な表情を凝視し、『この人ライナーさんの親友だったよな』そんな思考を隠しもしない。
「自宅はここの二階なので、転がしとこうと思えば出来るんですけどね。キルシュタインさんが受け取り拒否されるんでしたらそうします」
 意地の悪い言い回し。
 微笑んだまま、優しそうな表情のまま口にするのだから、性質の悪さが一層際立つ。
「えぇ、でも……」
「起こすのが忍びない?」
 ベルトルトはくつくつと静かに笑い、容赦なくライナーの頭を叩いた。
 驚いて止めようとするが、『キルシュタインさんが来たよ』の言葉に反応したのか、ライナーが勢い良く跳ね起きてジャンを視認し、目が開かない寝惚け顔のまま、にへら。と、笑う。
「ライナー、笑い方が気持ち悪いよ」
「うっせ……」
 ベルトルトに温かいおしぼりを渡され、顔に当ててじっとしながら悪態を跳ねつける。やり返せているのかは疑問が残るが。
「お疲れなら無理しなくても……」
「大丈夫ですっ、体力だけなら有り余ってます!」
「ほら、お酒持って行けば?ゆっくり呑みたいだろ?」
 カウンターに置かれた取っ手付きのビニール袋にはワインが二本入っている。
 ベルトルトが渡してきた物にライナーは目を瞬かせていたが、直ぐに意図を察したのか受け取り、別れの挨拶をして店を出た。親友二人の空気の読み合いに、ジャンは置いてきぼりを食らっている。
「えっと、どうしたら?」
「ヴァー君にも会いたいですし、良ければお邪魔させて貰いたいです。一緒に飲みましょう」
 ライナーが手に持った袋をぶらつかせる様に、ワインを好むジャンはつい頷いてしまった。
 転寝をするほど疲れているのだ。ここは帰らせるべきだとの声が脳裏に浮かぶが、決して知らぬ仲でもなし、家に呼ぶ準備もしている、宅飲みも悪くはない。自分に言い訳をしつつ、ブッフヴァルトも喜ぶと思えばこそ足取りも軽く、自宅へ向かって行く。
「紐?」
「直ぐ出てこないようにドアノブ止めてるんですよ」
 短い廊下の突き当りにある扉と、玄関横にあるトイレの扉が紐で繋がれている様子に、ライナーは戸惑いを隠せないでいる。当然だろう。だが、無意味にこんな真似をした訳でもない。
「面倒かも知れませんけど、ヴァルを抱っこする前に、着替えて下さい」
 玄関に置かれていた紙袋から出した物は、大きいトレーナーだ。ライナーが着ても、十分な大きさがあるものを選んで買って来た。
「いつもスーツがボロボロにならないか気になってたので」
 ジャンが説明すれば納得してくれたのか、ライナーは玄関から靴を脱いで上がり、ジャケットを脱いで着替えだす。
「お気遣いすみません」
「いえ、俺が勝手に気にしてるだけですし」
 男同士でも、着替えをまじまじと見られていい気はしないだろう。
 紐を解いて扉を開け、ライナーへ向かって飛びつこうと興奮気味のブッフヴァルトを捕まえ、ジャンは背を向けたまま部屋へと入っていく。
「あの、着替えました」
 トレーナーに着替えたライナーが室内まで入ってくればジャンはブッフヴァルトを解放する。一目散に飛びついて行く様は飼い主としては複雑な心境だが、不安要素が取り除かれた事は良き事だ。
 飛びついて来る毛玉にライナーは相好を崩す、元々、本気で気にしていなかったのだろう、いつもと同じように可愛がり出した。
 お茶を淹れ、ブッフヴァルトと遊ぶライナーの邪魔にならない場所に置き、遊ぶ様子を見守る。
「お疲れじゃありませんか?」
「ヴァー君と遊んでると疲れも吹っ飛びます」
 ライナーが人好きのする笑みを浮かべ、ジャンは人の体を登り棒にして頭や顔を踏みまくり、髪を掻き回して遊んでいるブッフヴァルトを眺めて苦笑した。
「ライナーさんが来た翌日は、遊び疲れてるのかずっと寝てばっかりなんですよ。俺が帰ってくるとずっとにゃーにゃー煩い奴なんで、ほんと助かってます」
「そうなんですか?かなり遊び好きですもんね、ご近所は大丈夫ですか?」
「はは、偶に煩いって言われます……、つっても、お隣さんも犬飼ってて遠吠えとかありますから、そこはお互い様で」
「関係は良好なんですね?」
「そうですね、顔合わせたら挨拶するくらいには?」
 ライナーの表情が曇った原因をジャンは察せず、単純に質問に答えるのみである。
「困った事が合ったら相談に乗りますから、遠慮しないで下さいね」
「ありがとうございます。今の所、トラブルらしいトラブルはないんですけどね」
 ならばそれが一番だ。ライナーが笑い、話は別の物に移り変わっていく。
 ジャンはニュースで見た殺人事件と、騒音問題を扱ったドキュメンタリー番組を思い浮かべた。恐らく、ライナーも同じものを見たのだろうと当たりを付け、納得した後は、猫の話題に始まり、動物の話題、気に入った動画を紹介し合ったりしていれば、ブッフヴァルトが遊び疲れてライナーの膝の上で丸まり、脚が温もって疲れが出たのかライナーが舟を漕いでいた。
「ライナーさん、眠いなら泊まって行きますか?下着は近くのコンビニで買ってきてもいいですし、歯ブラシなら予備あるんで」
「いえ、そんなご迷惑は……」
 ジャンの声に目を瞬かせ、ライナーは目を擦る。
「いつもヴァルがお世話になってますから、朝食くらい出しますよ」
「俺の方が世話になってる気がしますが……」
 渋るライナーを説得し、ジャンは歯ブラシを渡してから浴室兼、洗面室に押し込んで友人や、両親が来た際に使用する布団をロフトから投げ落として床に敷いて待っておく。
「風呂どうします?」
「昼に入ったので大丈夫です」
 服も着替えて歯も磨き、ならばあとは寝るだけ。
 ジャンは客を床に寝せる訳にもいかないとライナーにベッドを譲り、自分は床で寝ると主張したがライナーが固辞したため、無理強いも良くないと了承して着替えと共に浴室へ入っていった。
 人を待たせているため手早く体を洗い流し、浴室から出るとライナーは既にブッフヴァルトと共に寝落ちをしていた。小脇に猫を抱え込んで眠る大男の姿は微笑ましく映る。
 ドライヤーを諦め、少しだけベランダの硝子戸を開けて外の涼しい空気を室内に入れながら髪をしっかりと拭き上げて枕を濡らさないようにタオルを敷きジャンも寝床に横になる。その夜はブッフヴァルトが夜中に暴れる事もなく、しっかりと熟睡して爽やかな目覚めになった。
「おあお」
 不明瞭な朝の挨拶。
 カーテンの隙間から差し込んだ日差しで目を覚ましたライナーが上体を起こし、覚醒しようと頑張っては居るようだが目は開いていない。
「おはようございます。珈琲淹れますね」
「あ……、う……」
 なにをか言おうとはしているが、まとまらないのだろう。
 ただ、手はブッフヴァルトをわさわさ撫でている。
「お疲れですね」
「あー、最近、泊まり込みとかも多かったので……」
「えぇ、残業とかですか?」
「そんなもんです」
 詳細は言わず、ライナーが簡単に作ったハムレタスサンドに齧り付く。
「今時、泊まり込み残業ってブラック会社とか……」
 公務員でそこまで。
 ジャンは不穏に表情を固めながら思わず訊いてしまう。
「あ、待機も仕事の内と言いますか……」
「はぁ……」
 ライナーが言いたくないのなら深くは言及すまい。
 ジャンは珈琲のお代わりはどうかと話題を変え、酷く疲れているライナーを労る事にした。
 知り合ってまだ半年と立っては居ないが、これほど純粋に動物が好きなのだから悪い人間ではない事は明白で、口にしない理由があるのだと自分を納得させた。
「すみませんご飯まで戴いて……」
「いえいえ、誰かと一緒に出社って新鮮ですねぇ」
 玄関の鍵を閉め、ライナーとジャンは連れたって駅まで歩いて行き、お互い違う電車に乗って職場へと赴く。
 今度はいつ誘おうか。
 ジャンの頭の中は電車に揺られながらそればかりを考えていた。

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