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馬房

小説は妄想と捏造甚だしい。 原作のネタばれ、都合の良い解釈。 R18、グロ(精神的にも)、暴力表現などが含まれます。 冒頭にざっと注意を書いてありますので、それを読んだ上での 閲覧を宜しくお願い致します。何かあればご連絡いただければ幸いです。 基本的に右ジャンしか書きません。 萌が斜め上です。無駄にシリアスバイオレンス脳です。 拙い文章ですが、少しでもお楽しみ戴ければ嬉しく思います。 右ジャン、ジャン総受けしか書きません。あしからず。

惹かれる香り

・2019/01/29~くらいに書いた奴
・オメガバースではありますが、相変わらず碌でもない世界観で、酷い話
・煙草吸うフロック
・フロックがちょいちょいジャンに敬語?
・キャラ崩壊注意?
・ジャンが酷い目に遭ってばかり
・天国から地獄みたいなどっちも不幸な話
・強姦描写
・ジャンが甘っちょろい







 社員食堂でうどんを啜っていたら、男アルファであるアスリートが、見目麗しい男オメガの青年と婚約したと報道されていた。
「オメガなら産まれてくる子もアルファだろうし、将来は約束されたようなもんだよな。あー、羨ましい」
「そうかなぁ、プレッシャー凄そう……、俺は親とか、周囲からの期待に耐えられそうにないわ」
「そりゃそうか、あの人、オリンピックのメダル保持選手だもんな、親とか、周りの期待も凄そう……、万が一、ベータの子共とか……」
 言いかけて、自分の想像に具合が悪くなったのか、テレビを見ながら雑談の興じていた同僚は食事を進める振りをして黙り込んだ。多くは言うな。とばかりの空気が漂い、美味いはずの食事も不味くなってきてしまった。
 実際、アルファとオメガの夫婦がベータとして生まれた子供を認められずに虐待していたニュースも記憶に新しかったせいだ。
 ベータの両親から生まれた生粋のベータな俺には関係ない話だが、万が一、アルファとオメガの親から生まれたベータであれば地獄だっただろうとは想像に難くない。せめてアルファとつがい、産めるオメガなら『マシ』だった。ベータのお前は不用品だと聞かされて育つのだ。親が世界の全てである子供にとって、完全に存在を否定されたも同じだ。産まれた事、存在を拒絶され、生き続ける景色はどんな風に見えるのだろう。
 
 汁まで啜り、丼を空にすると黙って席を立ち食器をカウンターに返しに行く。
「フロック、もう飯終わったのか?」
「はい、まぁ……」
 丁度、食堂に入って来た同じ年の先輩に声をかけられ曖昧に返す。気にかけてくれるのはありがたいが面倒臭くて堪らない。中途採用の俺は、同じ中途の仲間と固まりがちだったが、特に不自由も感じていなかった。だが、同期でも特に仲が良かったサンドラやゴードンが別の部署に異動し、そこが余程忙しいのか連絡は途絶えがちに、連絡をしても『ごめん忙しい』。と、だけ返されてからは話しかけ辛くなった。あんなに仲の良かった人間でもこうなるんだ。との意識が湧いてしまったため、必要以上話す意味も意義も見いだせず会社で孤立気味になって久しい。
 俺の教育担当だったからか分からないが、孤立している後輩を気にかけ、注意にしろ、気遣いにしろ、良く声をかけてくるのが、この先輩。ジャン・キルシュタインだった。
 がちがちに緊張していた俺に、初対面から、フロック、フォルスター君?歳も同じだし、俺が教えられる事は何でも教えるから気兼ねなく頼ってくれ。と、初めから気さくで物怖じしない、どこでも上手くやっていけそうな印象を受ける人間で、現在は放っておいて欲しいのに面倒臭い人、になっている。
「誘ってくれりゃ良かったのに」
「忙しそうだったので」
 俺が素っ気なくすると寂しそうに微笑む。
 まるで俺が悪いみたいじゃないか。
 止めろよ。
「じゃあ、先に戻ってます」
「あぁ、無理すんなよ」
「はい、ありがとうございます」
 自分はしょっちゅう人の尻拭いで残業しているのに、阿保なお人好しだ。喫煙所で煙草を噴かしながらぼんやり思う。
 まだ新人で役立たずだからか、俺が定時で帰っても何も言わないし、口も上手くて仕事も早く、決して無能ではない様子なのに向上心はないようで、人に使われる平社員のまま。良くも悪くも平等で、何かと割を食っている変な人だ。
 だらだら仕事して、定時で帰り、また朝に来る。
 偶に話題になる社内ニートとも言える状態に、若干の居心地の悪さを感じないでもないが、それでも首にならないし、なるにしてもそれまで居座らせて貰おう。だなんて甘えた事を考えていた。
 大学時代、入社した当初はばりばり仕事をして、頼られる存在になったり、かけがえのない仲間が出来ると夢想していた。だが、現実は易々と『何者か』などには成り得ず、こうしてただ働くだけの歯車になるんだなぁ。なんて厭世的に考えていた。

   ◆ ◇ ◆ ◇

 出勤して早々、いつも声をかけてくる人物の姿がなく、デスクに座って周囲を見渡しているとジャンとは違う先輩に声をかけられた。
「あ、えっと、キルシュタイン先輩はいつも早いのに姿が見えないなと思いまして……」
 ジャンと俺は机が隣同士で、出社すれば必ず笑いかけて『おはよう』。そう言ってくれる人間が居ない空間に妙な違和感があった。
「あぁ、何ヵ月かに一回くらいの頻度で酷い風邪引いちゃうらしくてな。移すと悪いからって見舞いに行ってもドアも開けないし、相当きついんだろうな」
 他の先輩からすればいつもの事で、然程、気にする事態でもないらしく、ジャンのデスクにあるパソコンを起動させて業務の進捗具合を確認していた。そんなもんなのか。
 業務の引き継ぎや休む事への謝罪のメールもきちんと来ているそうで、居ないからと滞るような事にはならないようだ。とは言え、一人減ると他の人間の仕事は必然的に増えるため、今日は俺も相応に忙しくなってしまった。

 帰り道にあるコンビニに寄り、いつも通りに夕飯を買う。
 俺は最近出た、新商品の焼き肉弁当に嵌まっているのだが、今日は残業をしてしまったためか売り切れており、落胆しつつ中華丼を買った。早くジャンが復帰してくれなければ残業続き。それは嫌だな。さっさと戻ってきて欲しい。こんな最低な思考と、日頃、気にかけて貰っている意識も湧いて栄養補助食品を幾らか買い込んだ。

 帰宅する先は、長方形の分厚い板が並んだような形をした五階建ての単身用のマンション。エレベーターはない。何の因果か知らないが同じマンションの三階、一番奥の部屋に住むジャンの部屋へ行き、メールで『部屋の扉に食べ物をかけて置くので良かったら食べて下さい』。と、入れておく。
 品が入った袋を扉の取っ手に引っ掛け、インターホンを一度押してから退散し、自分が借りた部屋がある四階へと足を進めた。
 初めて食べる中華丼は美味しいか気になりつつ、階段を登り、階段側にある自宅の前に着くと鞄は持っているが、コンビニの袋がない事に気が付く。纏めて持っていたせいで、自分の分まで引っ掛けていたようだった。取りに戻るのは面倒。しかし、家に食料になりそうなものは牛乳と食パン程度しか思い浮かばず、なけなしの食料を失うのは手痛い。
 まだ、ジャンが出て来ていない可能性に賭けながら小走りに階段を降り、階下のジャンの自宅へと走っていれば、やたらと甘い匂いが鼻についた。近くに香りの強い花など植わっていただろうか。他住民の香水か。不思議に思いながらも走っていれば、香りはどんどん強くなり、あまりの強さに鼻を押さえた。
「何だこれ」
 不愉快。とまではいわないが、何故か気が逸り、落ち着かなくなる香りだった。
 目的の部屋の前に着けば、既に食料を入れたコンビニ袋はなく、焼き肉弁当がなかった時以上に落胆した。ただでさえ具合が悪い所を叩き起こしておいて、間違えたから返してくれ。は、あんまりだろうか。鼻を押さえながら逡巡していると、頭がぼやけ、奇妙な眩暈がした。
 良くない気配を感じ、踵を返そうとしたが足元がふらつき、扉に肩と頭をぶつけた。痛みと眩暈にずるずると蹲る。視界に濃い霧がかかりだしたかのように見えなくなり、心臓がどくどくと脈動し、血液を全身に激しく送り続けている。
 香りにやられて上手く呼吸が出来ていないのか、心臓が暴れ回るせいか、体や脳が酸素を欲していのに息が吸えない。ひゅうひゅうと喉を鳴らしながら懸命に呼吸をしても苦しくて堪らない。
 俺はコンクリートの床に額を擦りつけながら体を丸める。なんの発作だこれは。持病などはなく、初めての感覚で混乱するばかり。どうしたらいい。助けを呼ぼうにも苦しくて動けない。声も出せない。誰か。声にならない悲鳴を上げ続けていると、直ぐ傍で重い音がして、誰かが脇に手を差し入れ俺を引き摺って行く。
「おい……」
 耳まで詰まったようになり、話しかけられる声が上手く聞き取れず、更に強くなった香りに吐き気すらしてきてしまい、口を押える。なのに、強引に手を外され、口にやたら苦い水を流し込まれて鼻と口を塞がれた。地上で溺れそうになりながら飲み下すと、酷く咳き込んで余計に苦しい。なんだこいつ。殴るぞ。
 咳が落ち着いて来ると苦しさも和らぎ、目に浮いた涙を手で拭いながら、目の前の人物を見ればジャンが居た。心配そうに俺を見てタオルを渡してくる。
「落ち着いたか?」
 問いに頷く。落ち着きはしたが、状況の把握は出来ていない。
 急に何らかのアレルギーでも発症したのか俺は。
「これ、帰ったら、また一錠飲んどけ」
 カプセルが入ったシートを渡され、訳も分からぬまま外廊下に押し出された。通路に落ちていた鞄を拾い、ふらつきながら自室へと帰れば食欲もなく、言われた通りに何の薬かも解らない物を飲んでスーツのまま、倒れ込むようにベッドに横になって眠った。

    ◆ ◇ ◆ ◇

 朝になれば風呂に入っていない気持ち悪さと皺くちゃのスーツ、いつも以上に爆発したぼさぼさの頭に辟易しながら起き上がると時間を見てシャワーを浴び、念入りに歯磨きをした。

 何だったんだあれは。
 備え付けの小さな台所に置いてあった薬のシートをじっくりと眺め、裏に書かれた薬の名前をスマートフォンで検索する。
「はぁ?」
 渡されたものは、ベータ用に作られた、オメガのフェロモンの効果を薄める薬だった。
 オメガが必ずしもアルファとつがう事が当然ではなくなった昨今、その伴侶がオメガのフェロモンに耐性をつけ、フェロモンによって振り回されない生活を送るために開発された薬だと書いてあった。
「何でこんなもんをあの人が……」
 俺の疑問は当然だ。この薬は用心として持ち歩く場合はあっても、普通に生活していれば基本的に必要性はあまりないからだ。

 男女意外に存在する第三の性。
 全てに於いて優秀な雄であるアルファ。
 そのアルファとつがい、雌となる数が少ないオメガ。
 産まれ持った性別以上の物を持ちえず、一番数が多いベータ。
 中でも、オメガと言えば、一定の周期で本能的に優秀な雄であるアルファを求める誘惑フェロモンを出す発情期がある事で有名だ。
 目的のアルファとつがえれば、そのフェロモンは伴侶となったアルファにしか効果がないのだが、そこに至るまでに諸々の問題がある。幼いオメガだと体が成熟しきるまでは発情期の周期が不安定であったり、本人が自覚のないまま突発的に発露する場合すらあった。
 最大の問題は、オメガが出す誘惑フェロモンは、必ずしもアルファだけを呼ぶのではなく、周辺に居る一般人、いわゆるオメガでもアルファでもない、不特定多数のベータにまで発情を促す影響を与えてしまう事だった。
 フェロモンに酔った人間が、オメガへの性的暴行事件を起こす例は然程珍しくはなく、『事件を引き起こすオメガは隔離して施設で管理するべきだ』などと言う声も昔はあったと聞く。
 そこで出来たのが、オメガの発情抑制薬だが、優秀ではあるものの、体質的に元々効き辛い場合、長く常用しているために薬に耐性がついてしまい、効き辛くなって、どうしてもフェロモンを抑えきれない場合もあるため、オメガばかりに任せず、アルファやベータもフェロモンに関する正当な知識をつけ、自己管理するべきである。そんな声が高まって出来た薬だと聞いた事はあった。
 俺が産まれる前の話だ。昔の認識は、オメガは社会的弱者で、性犯罪にあってもフェロモンに惑わされたせいだ。そんな主張があればやった人間は無罪放免。人によってはオメガを淫魔のよう考えたり、誰でも誘う淫乱と罵りながら忌避したり、特に下劣なもので言えば『雄を愉しませるために産まれた生き物』などと放言する人間まで居たそうだ。
 変わり出したのは、世界の中でも一番大きな国の大統領になった女アルファが声を上げた時だ。上記の『フェロモンに関する正当な知識を』との言葉も彼女のもの。
 下衆な性欲処理の道具とまで言わしめる偏見はなくすべきである。声高に力強く叫ばれた言葉は、虐げられていたオメガや、そのつがいから強く支持された。
 有言実行の傑物であった彼女は、件の薬の開発と研究を進め、教育機関でも第三の性に関する知識を詳しく学ばせるよう徹底していった。当時は様々な反発、主にオメガが弱者でなくては困る層や、都合良く使いたい支配者層、異質な者への嫌悪から来る批判、反発もあったそうだが、一つの思想を貫き続け、今でも皆無とは言い難いものの、昔よりはオメガへの偏見は減ったそうだ。
 殊、オメガはアルファとつがい、アルファの子共を産めなければ塵だなんて酷い言葉を投げる人間を、取り敢えず見た事はない。腹の中や顔の見えない場所では知れないが。

 果たして。
 ジャンが何故こんなものを持っているのか。
 もしや、体調を崩す原因は伴侶であるオメガが原因だろうか。この薬自体の副作用は少ないが、合わない人間はとことん合わないと聞く。あのお人好しが伴侶を傷つけないようにフェロモンに耐えようとして、薬を飲み、体調を崩す。ありそうだ。
 だが、待てよ。ここは単身者用の棟だ。恋人を勝手に住まわせているのは規約違反になる。今度訊いてみるか?
 悩みながら鞄の中に薬のシートを仕舞い、食パンを焼きもせずに食べたが物足りず、いつもより早く出てコンビニでホットスナックや、カップラーメンを食べ、腹を満たして出勤した。腹が重い。
 ジャンが出てくるまで残業が続き、やっと出て来た頃には『ご迷惑をおかけしました』。と、だけ言って職務に復帰し、多くは語らず引継ぎを終わらせれば直ぐに黙々と作業を進めていた。あの香りも、薬の事もなんら弁解はしない。
 ジャンが席を立つと同時に俺も立ち上り、ポケットに例の薬のシートを突っ込むと煙草の箱を持って移動する。煙草を吸わないジャンは、決して喫煙室にはいかず、大概はトイレか給湯室でコーヒーや紅茶などの飲み物を淹れ終われば直ぐにデスクに戻ってくる。
 今日も例に漏れず、普段通りの行動パターン。
 幸い、給湯室に人はおらず、声をかけるのに苦労はしなかった。
「あの、これ……、ありがとうございました」
「あぁ、別に捨てて良かったのに」
「でもこの薬、わざわざ病院に行かないと貰えないし、まぁまぁするんでしょう?」
 シートを受け取りながらジャンが言えば、俺は首を傾げた。健康保険適用で高くはないとは言え、使い捨てに出来るほど安くもない。
「調べたのか……」
「はぁ……、何飲まされたのかなと……」
 ジャンが表情を曇らせた意味が解らず、素直に言えば不安気な眼差しを投げかけられた。
「あの、悪いけど黙っといてくれると嬉しい……」
 恋人とこっそり住んでる事を?駄目だと思うけど。何となく、軽そうな見た目にそぐわず案外、潔癖な人だと思っていたのに、そう言う事するんだ。なんて勝手に軽蔑して頷いた。
「まぁ、俺には関係ないですし」
 知っていて黙っていたと発覚してしまえば俺まで怒られそうだが、自ら密告しない限り腹の中は誰にも解らない。俺はジャンの規約違反を誰かに零すつもりはないし、ジャンが調子に乗って匂わせるような真似をしなければ大丈夫だろう。俺の知った事じゃない。
「そうだよな。ごめん」
 だから謝るなよ。
 俺が悪者みたいだろ。
 若干の苛立ちを感じながらも、シートを返せてすっきりした俺は煙草を吸いに行き、定時で悠々と帰宅し、焼き肉弁当に舌鼓を打って快適な睡眠をとる。喉元過ぎれば。を地で行き二、三日もすれば、強烈な記憶も薄れ、再び俺は社内ニートに戻った。

   ◆ ◇ ◆ ◇

 面倒臭い年末の会社行事。
 これが終われば年始までそれなりの期間の休みに突入するとあって皆浮かれている。が、他部署との懇親会。と、銘打った飲み会でも俺は孤立し、一人酒を呑み続けて気を紛らわす。
「随分呑んでるけど、大丈夫か?」
「大丈夫」
 酒漬けになった脳味噌で返事をすれば、ジャンは心配そうに眉を下げた。
「もうその辺にしとけよ。そんなに強くないって前言ってただろ」
「そうだっけ?」
 本人が覚えてない物事でも本当にジャンは良く覚えている。それだけ周囲を良く見てるんだろうが、疲れないのだろうか。
「お前、本当に疲れねぇのそれ」
「は?」
 同性で同じ歳でも、先輩に対してあるまじき言葉遣いで唐突に質問を投げればジャンは困惑する。
「いや、いつも周りに気使って、割り食って、尻拭いして、知ってんのか?お前が休んだらいつもお前に助けられてる分際の奴が文句ばっか言ってんだぜ」
 ジャンが休んだ一週間、俺も残業を余儀なくされたが、いつもジャンに仕事を押し付けてさぼっている奴が無能を晒していた。やらないから覚えないんだよ。馬鹿だろ。と、横目で見ながら俺は黙々と手を動かしていた。
 社内ニートとは言いつつ、俺はやるべき事はやっているつもりだ。まだ入社一年も経っていないとあって躊躇なく質問も出来る。新人の俺よりも酷い仕事をして文句だけを垂れる諸先輩を白眼視まではしないが、何故、優秀なジャンが、こんな人間共に都合良く使われる立場に甘んじているのか不思議でならない。
「他人に媚びねぇと死ぬの?周りの顔色窺ってへこへこしてないと居場所作れねぇの?」
「絡み酒か?」
「いや、純粋な疑問」
 不躾な俺を怒るでもなく、叱るでもなく、ジャンは宥めにかかる。本当に馬鹿だな。秘密の恋人とやらも、綺麗なマンションに住んでるこいつを利用してるだけなんじゃないかと感じてしまう。
「恋人選びとかもちょっと考えた方がいいぞ。お前利用され過ぎ、お人好し過ぎ、馬鹿だろ、人見る眼ないな」
「なんだ、心配してくれてんのか?」
 やっぱり馬鹿だ。俺の罵倒を心配だなんて。
 半眼でジャンを眺めていると、不意に漂って来た甘い香りに気付き、無遠慮に顔を近づけて匂いを嗅ぐ。
「吐くならトイレいけっ!」
 ジャンは急に顔を近付けた俺に驚いて体を逸らし、俺の肩を押さえてくるが、どうしても気になり、距離をとろうとする腕を引き寄せ、匂いを嗅ぐ。どこかで嗅いだ記憶はあるが今一思い出せない香りだった。どこで嗅いだんだろう。
「フォルスター君、何してんの?」
 他の先輩が俺の奇行に口を出してくる。
 俺は、んー。と、曖昧な返事を返し、不思議なジャンの匂いをひたすら嗅いでいた。
「なんかいい匂いする」
「さっき、女子社員に練り香水つけられたからそれかもな」
 ジャンは苦笑していたが、香水と言われても納得がいかず、酔っ払いの扱いに困ってトイレに逃げようとした背中に纏わりついてまで匂いを嗅いでいた。我ながら気持ち悪い。その後も俺はひたすら呑み続けて潰れてしまい、二次会を辞退したジャンに抱えられて帰宅する羽目になった。
「お前、一人でそんなに良く呑めるなぁ」
「べつにぃー。ほとんど水だろあんなん……」
「お前、味解んねぇの?」
「あじはわかるけどー」
 酔う感覚を好んでいるだけで、味わって呑んでいるとは言い難い。
 下らない雑談をしながら俺を肩に担ぐジャンの息が上がり、明らかに辛そうに眉根を寄せていた。ジャンは細い体躯を気にして鍛えてはいるそうだが、どうも先天的に筋肉が付き辛いのか、一九〇センチと背が高い割りに細身だ。かと言って女性的な華奢さではなく、むっちりした筋肉がついて、胸囲はそこそこある。今触っているから間違いない。
「おま、歩けるなら……、ちょっとは、歩けよ……」
 俺は完全に凭れかかって引き摺られていると言っても過言ではない。くっついていればいい匂いがするし、勝手に連れてってくれるから楽だし、正直、動きたくない俺は殆どジャンに移動を任せていた。こう言う時にエレベーターがないマンションは面倒だ。主に俺が悪いけど。当然ながら、自分の部屋がある階に来ると、ジャンは疲れ果てて階段に座り込んでしまった。
「もう、自分、で……、いけ……」
「たいりょくねぇなー。がんばれよせんぱーい」
「うる……、せぇよ、酔っ払い、が……」
 同じく俺も階段に座り、肩で息をしているジャンを煽る。全く動けないかと言えば嘘だが、動きたくないのも本音で、ジャンと居る時間を稼ぎたい気持ちもあった。訳の解らない感覚だ。目の前に居るこの男の薄ら汗を掻いた肌と紅潮した頬。息遣いが不思議と色っぽく見える。酔い過ぎかな。
「じゃあ、ここでねる」
「は、お前、性質わる……」
 鞄を枕にして地面に転がろうとした俺に焦り、ジャンが慌てて起こしてくる。面倒な後輩をこんな場所に放置したら、休み明けに何を言われるか分かったもんじゃないから、絶対、何とかすると思った。
「あーもう、階段無理だから俺んち連れてくぞ。文句言うなよ」
「え、いいの?」
「いいよ」
 短い問答を経て、引き摺られながらジャンの部屋に行く。
 一列に並んだ扉を横目に一番奥へと歩いて行き、ジャンがポケットの中から鍵を取り出して開けた先は、恋人が居るとは思えないほど服や本などの小物が散らかり、雑然とした室内。そこに置いてあった小さな冷蔵庫からミネラルウォーターを出して渡してくれた。
「きょーは、こいびといねぇの?」
「恋人?何の話だ」
「だって、くすり……、こいびとのためにのんでんだろ?」
 玄関に座りながら、渇いた喉を潤していく。
 酒も水なのに、呑めば呑むほど喉が渇くのは不思議だ。
「あー、昔の……」
 ジャンは言葉を濁し、見上げている俺から目を逸らす。
 なんだ、今は居ないのか。それなら規約違反は俺の早とちりだ。誰にも言わなくて良かった。大恥を晒す所だった。一人で納得し、あっと言う間にペットボトルの中身を空にして床に転がる。火照った体に冷たい床が心地好い。
「こんな所で寝るなよ」
「うごきたくねー」
「あぁもう、酔ったら子供がえりタイプかよ……」
 それでもいいから、もう寝たい。
「ほら、スーツ脱いで、砂ぼこりついてるし……、せめて着替えろよ。服貸すから」
 靴を脱がされ、フローリングの床の上を引き摺られて尻が冷たい。
 ジャケットを奪われ、中に着ているカッターシャツや、スラックス、靴下も脱がされていく。
「いやー、らんぼうされるー」
「するかっ!」
 けたけた笑いながら体を庇いつつジャンを茶化せば、いい反応が返って来て余計に面白くなり、笑いが止まらなくなった。
「ほら、パジャマ着ろ!」
 寝巻を投げつけられ、袖を通せば然程、体格は変わらないのか問題なく着れてしまった。しかし、ジャンの手足が俺よりも長い事を表すように、袖や脚が若干足りない。若干だ。
「ほら、さっさと寝ろ。酔っ払い。俺は風呂行くから」
「いってらっしゃい」
 適当な挨拶をしながら目についたワンルームの中に在るベッドに潜り込めば後頭部を叩かれた。
「何で当然のように人のベッドに入ってんだよ!」
「おまえが、ねろつったんだろー」
「床に決まってんだろ」
「かわいいこうはいをゆかでねかせるのかー」
 日常的に使われているであろう布団にしがみつき、ごねにごねる。こんな後輩、絶対可愛くないと自覚しつつも、ジャンの苦虫を噛み潰したような表情が面白くて堪らず、ついやってしまう。
 最終的には溜息を吐きながら、ベッドで寝ていいと許可を出し、ジャンは風呂に行った。やはり甘い奴だ。俺ならこんな鬱陶しい酔っ払い部屋から蹴り出すのに。
 布団を抱き枕にしながら顔を埋めれば、鼻孔に漂って来た香りはいい匂いだった。飲み屋でも感じたのは香水などではなく、ジャンの匂いなんだろう。酔った頭でも、男の匂いを『良い』などと感じるのは可笑しいが、いいものはいいのだから仕方がない。
 布団についた匂いと、酒による睡魔に負けて朝までしっかり寝てしまい、翌朝にはベッドから蹴り落されて起きた。

 蹴り落されて打った肩を撫で、恨みがましげにジャンを見る。
「悪かったって……、つい邪魔で……」
 ぽろ。と、本音を漏らしたジャンに未使用の歯ブラシを渡され、朝の支度をする。
「俺も迷惑かけた自覚はあるんで、近くでモーニング奢りますよ」
 何となく痒い頭を掻きながら歯を磨き、詫びになりそうでならない申し出をする。飲み会で気持ち悪く絡み、泊めて貰った挙句に他人のベッドを奪った罪は、朝食の提供だけでは足りない気もした。
 幸い、休日のため、贖罪の時間は幾らでもある。
「あー、そうして貰おうかな。まじで疲れた」
「何にします?」
「何があるんだ?」
 口を漱ぎ、顔もさっぱりさせてから訊けば、モーニングを食べた事がないようで、逆に訊かれてしまった。
「外食しないんですか?」
「あんまり。基本自分で作り置きしてるから」
 男の一人暮らしで。そう言ってしまえば偏見だろうか。部屋の雑然ぶりから家事は好まないように見えたが、そうでもないようだ。
「料理が趣味なんですか?」
「趣味って言うか、味が濃過ぎるとか、合わないのが多くてな。アレルギーって程じゃないんだが……」
「へぇ……、俺は外食ばっかりなんで調理時間とか片づけが凄く無駄に感じるんですよね」
「そこは価値観の違いだな」
 弁当などを持参していた記憶はない。いつも食堂で会っているから、外で食べるもの全てが受け付けない訳でもないようだ。
「俺のお勧めでいいですか?」
「あぁ、構わねぇよ。基本的には何でも食えるし」
 ならばと俺は昨日着ていたスーツを着て、ジャンはデニムパンツに薄手のシャツとジャケットを羽織り、近くにある牛丼屋へ連れ立って行く。着けば牛丼の大盛りを食べる俺の傍らで、ジャンは卵かけご飯を頼み、静かに食べていた。実に質素だ。
「遠慮してるんじゃないですよね?」
「寧ろ、朝からそんなに食えるお前が凄いと思う」
「人間食わないと元気でないですよ」
 何とも言えない表情で俺が掻き込んでいる丼を見てジャンが意見すれば、俺は持論を展開し、話は平行線を辿る。それ以上の会話は特になく、食事を終えたら解散し、俺は自宅の風呂に入って体をさっぱりさせた。髪を乾かし、自分のベッドに入って寝直そうとすれば、慣れた自分の匂いがして味気ない気分になる。なんだこれ。
 暫くごろごろしていれば眠気がやってきて、問題なく眠れはしたが、寝起きが酷くつまらなかった。昼に食事に出ても何かつまらなくて、夕方にはジャンの部屋にピザを持って突撃した。
「なんだそれ……」
「お詫び?」
 有名店のロゴが入った大きなピザケースを二つ、スーパーで買ってきた二リットルコーラが一本とチーズが入った袋を差し出しながら疑問符を付けた答えを返す。
「もう夕飯、作っちゃいました?」
「いや、流石にまだ……、いいや、上がれよ」
 小さな独り用の座卓を見れば、ノートパソコンが乗っており、画面を見れば何らかプレゼン資料を作っているようだった。誰の仕事だよこれ。本当に良くやるな。
「ちょっと冷えたんで温め直しますねー」
 遠慮なく丁度良い皿を借りてレンジにピザを押し込み、マルガリータにチーズを山ほどかけて温める。
「そんなに足すのか?」
「市販のってチーズ物足りなくないですか?」
「解らなくはないが……」
 元の具材が見えなくなるほど、山のようにかけられたチーズに、ジャンが引き攣った笑みを浮かべ、一緒にレンジの中を覗き込む。これだけでも心がう浮き立って鼻歌でも歌いそうなくらい楽しい。俺は何だかんだで独りが寂しかったのかも知れない。

 マルガリータが温まった後は、座卓の上のノートパソコンを片付けさせ、もう一つの照り焼きチキンにもチーズをかけ温める。
「フロック、カロリーの摂取量やばくないか?鍛えてたりする?」
「毎朝、三十分くらいですけど通勤前に走ってはいます」
 真面目なのだか不真面目なのだか。
 これはサンドラに言われた事だが、俺だって最初から社内ニートするつもりで入社した訳じゃない。頑張るつもりは大いにあった訳だ。諸々の事情でやさぐれただけで。
「それでそこまで太ってないのか。でも毎日こんなんじゃ三十路になった頃に一気に来るって良く聞くぞ」
「良く言われます」
 だろうな。と、ジャンも納得しながら頷くが、俺にとって食事管理は面倒な負担でしかない。と、言えば表情を曇らせた。
「誰か作ってくれたりするならいいんですけどね」
「マメな彼女が出来ると良いな……、成人病まっしぐらだぞ」
「食費出すんで飯食わせて下さいって駄目ですか?」
 相当、図々しい申し出をして、じ。と、ジャンを見詰める。
 幾らお人好しでも、これは流石に無理だろうか。そう思っていたのに、ジャンは眉根を寄せ、俺の視線を居心地悪そうに受け取る。
「夕飯だけなら……」
 自分で言っておいて、幾らなんでも嘘だろ。と、思った。練乳に蜂蜜かけたくらい甘い。良く詐欺に遭わないな。ってくらい甘い。誰かが見張ってないと直ぐ食い物にされてしまうんじゃないか。
「じゃあ、必要な食材とか言っといてくれたら買っときます」
「買い物してくれんのか?」
「食わせて貰うんで。料理と買い物は分担した方が楽でしょう?」
「あぁ、まぁ……」
 温まった照り焼きチキンを丸めながら齧りついていれば、不明瞭な答え方。
 もしや、買い物まで自分でして食わせてやるつもりだったのか。全てに寄っかかるのはどうかと考え、買い物を担うよう申し出たが、ジャンはどこまでお人好しなのだろうか。昔の恋人とやらも碌でもない奴だったのでは。と、想像が実に捗ってしまう。

 偏見や、差別が敵視されるようになっても、世代によって根強く残る意識はどうしてもある。
 ただ、オメガだからと被虐され、必ずしも弱々しく泣いているような人間ばかりではない。寧ろ、性質が悪く、オメガの立場の弱さを盾にして、優しそうな人間に我儘放題な者も居る。可哀想な人間だから優しくされるべきだ。可哀想なのだから全てに優遇、優先されなければならない。優しくしない者は悪だ。相手が優しければ優しいほどつけ上がって凭れかかり、疲弊させていく。
 ジャンの甘さはそんな恋人に躾けられた甘さか。
「もうお腹一杯か?」
「いや、ちょっと喉に詰まってただけです」
「静かに苦しまないで表現しろ。急に倒れたら怖いだろうが……」
 俺が誤魔化しにコップへ移したコーラを飲んでいれば、心配げにジャンが言う。練乳より甘い物はなんだろうか。ジャンは食べたら歯に沁みるくらいの甘さだろうな。

 ピザを食べ終えれば、明日はカレーでも作っておくから夜においで。と、言われた。食料は提供したが、ごみも何もかも置きっぱなしで帰っていく不躾者に本当に甘ったるい。ジャンの体臭も甘ったるい。気分がふわふわしてくる。

 帰宅後はいい気分で寝れるような気がして、階段を登る足取りは、ほんの数時間前の気怠さが嘘のように軽かった。

   ◆ ◇ ◆ ◇

 あの日から、急速に俺とジャンの距離は近づいた。
 残業で余程遅くなる日を除いて、ほぼ毎日、休日ですら夕食を一緒にとり、同じく残業で帰宅時間が重なれば一緒に食べ歩きに行った。居酒屋、ファミレス、個人の食事処、穴場を探すのも独りの時より楽しくて仕方がない。
 仕事の愚痴も偶にあったが、案外、それ以外でも会話は弾み、ジャンの作る食事は最初こそ薄味に感じたが、徐々に舌が慣れて行ったのか、一カ月もすれば寧ろ外食が濃く感じるようになっていった。
 そしてすこぶる体調が良い。
「フォルスター君、最近、顔色いいわね?」
「そうですか?」
 曰く、以前は覇気がなく、血色も悪く見えていたそうだ。
「うん、なんか仕事にも積極的で前よりはきはきしてるし、部長があなたを話題に出して褒めてるの聞いたわよ」
 事務員の女性から褒められ、間接的にありがたい報告を聞いて、少しばかり気持ちが浮ついた。懸命に隠しはしたが、嬉しかった。
 会社では訊き辛かった相談もジャンが良く聞いてくれ、やり易くなった事も一因だろう。今日は高い肉と、ジャンが好きなワインでも買っていこうと決意する。

「また高そうなワイン買ってきたな」
「こっちスパーリング」
 種類を分け、二本も買ってきた酒と二枚合わせて五百グラムのステーキ用の肉を目の前に提供され、ジャンは苦笑する。
 俺の報告をジャンは嬉しそうに聞いてくれ、肉をオーブンで焼きながら、チーズとマッシュポテトを和えた物を作っていた。アリゴとか言うステーキの付け合わせらしい。芋はジャンがレタスサラダを作っている間に俺が頑張って潰した。
 やっている事はほとんど子供の手伝い程度だが、美味いものが出来上がっていく様子は見ていて楽しい。ステーキが後数分で焼き上がる時間にバケットをトースターに入れ、焼き上がりを待つ。
「お前って、同じ歳だけど俺より勤続年数長いよな?」
「俺は高校卒業して直ぐ入社したからな」
 アリゴの他に、ステーキソース、柚子胡椒、岩塩、山葵、酢醤油、好みの調味料をつけろとばかりに細長いケースに並べられた物を選びながらジャンに雑談を振る。道理で仕事が出来て社内事情に通じているはずだ。それでも昇進していない所を見ると、何らかの個人的事情でもあるのか。
「前の恋人って社内の人か?」
「違うけど何で?」
 閑職にこそ追いやられなかったが、社内恋愛のいざこざで昇進が駄目になったのか。などとは、とても訊けない。会社では兎も角、二人の場合であれば口調は互いに砕けたものになり、大して気負わない会話が出来るようになったが、それでも他人同士。
 まだまだ踏み込めない領域もある。
「社内恋愛って別れた後に気不味くなったりしないのかな?とか」
「好きな子でも出来たのか?さっき言ってた事務の子とか」
「違うけど……」
「ふーん?他の女性社員も、お前の事いいな。つってたから、別れた後の事まで考えないで、告白してみれば?」
「そんなんじゃねぇって」
 切り分けたステーキにアリゴをたっぷりかけて頬張った瞬間、熱々の芋とチーズの塊に口の中が火傷寸前で、じたばたしてワインで流し込んで咳き込めば笑われてしまった。
「欲張って一気に食うから」
「うるせ……」
 ぐびぐびと味わいもせずにワインを一気に呑み息を吐く。
 そんな俺を見て、勿体ない。と、ジャンは香りも楽しみながら一口ずつ楽しんでいる。赤ワインは渋くて酸っぱいな。くらいしか俺は思わないが、好きな奴からしたらそうでもないらしい。感覚の共有は難しいが、ジャンが喜んでるならいいか。
 食事を平らげた頃には一本が空になり、針金で固定されたスパークリングワインの蓋をタオルで包みながら恐る恐ると空け、ぽこん。と、気の抜ける音が響いて空いた時は安堵と共に二人して笑った。
「俺はスパークリングの方か好みかも」
「お前、ビールとか炭酸系好きだもんな。良く呑んでる」
 言われてみれば。酒は呑めればいい。くらいでしかなかったが、ジャンと話すようになって自分の好みが解ってきた。ジャンが俺を良く見ているからか。なんだか胸がざわざわしてくる。
「うん、美味い」
 ジャンがスパークリングワインを呑み、口元を綻ばせる。酒も俺のようにただ酔えればいいだけの人間より、こんな風に喜んで呑んでくれる人間に呑まれたいだろう。なんて。荒唐無稽な事を考えた。
「眠そうだな。泊まっていくか?」
「蹴り落されないなら……」
「寝てる時の俺に言ってくれ」
「意味あるのかそれ」
 さぁ。と、ジャンが軽口を叩いて肩を竦めて見せる。俺は風呂まで借り、我が物顔でベッドに入ったが、幸い、その日は蹴り落されずに済み、一人で眠るよりも温かく、心地好い眠りを享受していた。

 ◆ ◇ ◆ ◇

 春が近くなってくると、ジャンがいつもよりいい匂いがする気がした。酒にかこつけて人の家に泊まり込み、同衾する。
 以前の俺なら男同士で同じベッドなど、『気味が悪い』。なんて考えていたはずなのに人は変わるものだ。下手を打てば、自分のベッドよりも寝心地や、安眠度が高く、寝覚めがいい。
 ジャンの匂いはリラックス効果でもあるんだろうか。

 任せて貰える仕事が増え、社内ニート。だなんて嘯いていた俺も忙しくなってきたが、買い物をしてジャンと夕食をとるのはずっと変わらなかった。
 時折、お互いに風邪らしいものはあったものの、栄養を取って睡眠をとれば大概は即治った。しかし、二月に入った頃にジャンが大幅に体調を崩したようで、前日に『性質が悪い風邪引いた。来るな』と、だけ書いたメールが来た。例の数カ月に一回のものらしい。
 あの頃とは違い、今回は俺が引き継げる案件は引き継いで片づけている。成長したものだ。
「本当に定期的に体調を崩すんですね」
「全く迷惑な話だよなぁ、体調管理くらいきちんとして貰わないと、いい大人なんだからさ」
 『いい匂い』が掻き消されてしまうのが嫌で、徐々に煙草の量も減っていき、今や完全に吸わなくなった俺は、給湯室に来てお湯を貰い、口慰みにインスタントコーヒーを淹れていた。
 他の先輩と鉢合わせ、ジャンの話題が出たため何気なく零せば、先輩は明らかな嫌味を口にする。お前が休んだ時にたっぷりと同じ言葉を言ってやろうじゃないか。大体、ジャンが働き過ぎなのは、同期であるお前等が無能やさぼり屋だらけだからじゃないのか。
 多くは言わずに笑って誤魔化し、腹の中でどす黒い感情を渦巻かせながら、デスクに戻り、スマートフォンを取り出して『欲しいものはあるか?』と、ジャンにメールする。以前のように、常温放置できるものを扉の取っ手に引っ掛けて置くだけなら然程、迷惑にもならないだろう。
 一時間ほどしてから『ウィダーと紅茶』とだけ入って来て、数時間の残業の後、遅くまで開いているスーパーに寄って必要な物を多めに買っておき、ジャンの部屋まで行くと一度だけインターホンを押して自宅へ帰った。今日は一人飯だ。適当な弁当は見繕ってきたが味気ない。
 気落ちしながら防寒に着ていたダッフルコートを脱いでハンガーにかけようとして冷や汗が噴き出る。いつもスーツの内ポケットに入れている財布がない。俄かに焦り出し、スーツのみならず、コートのポケット、通勤鞄の中や、ありとあらゆる入れ物をひっくり返して探すが影も形も見つからない。
「やばい落とした」
 いつか落とした際は、気付かずいたせいで警察から連絡が来て驚いたが、善良な人間が拾ってくれていたお陰で損失はなかった。今回はどうだろう。知り合いの『免許書やカード以外中身全部抜かれてた』そんな嘆きも聞いた事がある。
「どうしよう。近場の交番……、いやでも……」
 食事どころではなくなり、うろうろと室内を右往左往する。
 買い物をした際は確実に持っていた。スーパーに置き忘れたか。或いはその帰り道で落としたか、行動を必死に脳内でなぞり、どこまで持っていたか思い出そうとすれば、は。と、気が付いた。
 袋の中だ。籠から買った商品を移す際に、着膨れ故にスーツの内ポケットに財布を入れ直すのが面倒で、買った商品と一緒に財布も投げ込んだ。ほとんど無意識だったため、中々思い出せなかったが、偶にやる行動だ。可能性はあった。
 コートも纏わず一目散にジャンの部屋まで走って行く。
「あ、ジャン!その袋待ってくれ財布が!」
 折良くジャンが扉を開け、袋を手に取ろうとしていた所だった。
 焦りながら声をかけ、勢い良く近づいて行けば、いつもの『いい匂い』がかなり強くなっており、くら。と、眩暈がした。
「フロック⁉」
 勢い良く走っていたものが急激に失速し、足元がふらついて壁に手をついた。この匂いは、初めてジャンの部屋の前まで来た時と同じだ。可笑しい、オメガの恋人はもう居ないはずでは?
 疑問も上手く纏められず、匂いに中てられながら覚束ない足取りでジャンへと近づいていく。
「財布……、たぶん、ふくろ……」
「先に薬やるから飲め」
 薬。
 ベータ用の?
 ジャンに袋と共に手を引かれ、玄関に座らされた。
 薬入れの中を辛そうな表情で漁っている。普段から整理しておかないからだ。以前よりも観察の余裕があり、壁に凭れながら、ぼやける視界を払おうと目を擦る。熱に浮かされた時のように、頭がふわふわとして、動悸までしてきた。
 いつか見たカプセルを開き、中身を水に溶かしすと俺の側に跪いてグラスを渡そうとしてくる。以前も同じようにしていたんだろう。
「ほら、これ飲め」
 何度か半透明な濁り水の入ったグラスと、ジャンを交互に見て、グラスは受け取ったがそのまま床に置いた。
「いや、飲めよ」
「要らね」
「要らないじゃなくて飲めって……、お前のためだから」
 辛そうに眉根を寄せるジャンに、妙な気持ちが湧いてくる。
 欲しい。ただただそう思った。俺の手で床に放置されたグラスを手に取ろうと伸ばした手を絡め取り、鼻先をジャンの首筋に寄せ、胸一杯に香りを吸い込む。甘ったるい香りだ。花とも蜜とも譬え難い蠱惑的な匂い。
「フロック、頼むからあれ飲んでくれ」
「断る」
 言いながらジャンを床の上に押し倒し、抱き締めて匂いを嗅ぎ続けた。花に引き寄せられる虫はこんな気分なんだろうか。酒以上に酩酊させてくる香りを全身で味わうように体を擦り付け、うっとりと酔いに身を任せて縋りついていた。
「ふろっく……」
 ジャンの声はもう泣きそうで、震えている。
「いつも以上にいい匂いだな……、やばい」
 香りが甘いのなら、やはりジャン自身も甘いのか。
 下らない仮定が気になり、首筋を舐め上げれば過剰なほどジャンの体が跳ね、表情が歪んだ。いつも整然としている人間が表情を崩すと、妙に心が浮き立つと初めて学習した。中々いい。
 もっと見たくなり、直に素肌に触れ、ジャンの寝巻を脱がしていけば、抵抗はしているが、普段と比べてかなり弱々しい。全く力が入らないようだ。具合が悪くて休んでいたんだから当然か。それに訳の解らん欲情をしてる俺が可笑しいんだ。
「悪い。ジャン……、おれ……。優しくするから……」
 スラックスのベルトを外し、下半身を露出させながらの間抜けな懇願。これは強姦じゃない。と、言い訳するようなものだ。弱った体を押さえ付け、体が欲するままに覆い被さって性器を体内に押し込めば、思った以上にすんなりと受け入れられ、温かい肉筒が俺の侵入を悦ぶようにまとわりついて夢中で腰を振った。ジャンは、その間、耐えるような険しい表情のまま、静かに涙を零していた。

「いきそ……」
 汗を流し、ぜ、ぜ。と、息を荒げて呟けば、体の下に居たジャンが再び暴れ出した。
「中は止めてくれ……っ!」
 ジャンが涙で濡れた眼、力の入らない手で抵抗するが、俺は腰を押し付けて、奥に注ぎ込むようにして精液を吐き出した。その瞬間の青褪め、引き攣った表情もまたそそる。
 蓋をしたまま、抜けないように気をつけながら中に精液を塗り込むように腰を動かし、際限なく甘く香る匂いを堪能していれば、ジャンが可愛く見えて来て困る。こんなむちむちした大男が。
 どうしよう。胸の感触も悪くない。むにむにと張った胸を柔らかく右手で揉み、左は口に含んで舌で刺激しながら時に吸った。香りが強いせいなのか、肌を伝う汗まで甘く感じ、夢中で舐める。
 一体、俺は何をとち狂ってジャンを犯してるんだか。殺されても文句は言えない状況だ。いや、ジャンの手を汚させるのはどうだろうか、自分からけじめをつけるのが最善では。
 熱に浮かされた頭で、ぐだぐだ考えながら、ジャンの胸に額を擦りつけ、身を震わせて二度目の精を吐く。
 噎せ返るような匂いを嗅げば出しても出しても満足出来ず、まだジャンが欲しくなる。二度も出したはずが、俺の性器は硬いままだ。俺、変な薬でもやってたか?いや、風邪薬一つ飲んでないのに。
「ふろっく……、ごめんな」
「は?謝るのは俺じゃねぇの……?」
 ジャンの言葉が理解出来ず俺は戸惑う。酷い真似をしてるのは俺で、何故、被害者が謝るのか。それに、よくよく見れば泣いている顔はあまり好きじゃないかも。掌で頬を拭い、口付けて抱き締めた。
「責任取る……、何でも言う事聞く」
 どうとればいいのかは判らないが、何でもジャンが望むままにしようと思った。
「なら、とりあえず、そこの薬入りの水飲んで欲しいんだけど……」
 掠れた声でジャンが言い、俺は床に置きっぱなしになっていたグラスを顧みる。
「今、飲まねぇと駄目か?」
 無言でジャンは頷いた。
 宣言した手前、渋々と手を伸ばし、苦い半透明の水を飲んでジャンを抱き締めて数分もじっとしていれば、全身が沸騰していたような熱は急速に冷め、興奮も落ち着いていく。
 俺自身が体の変化について行けず、茫然としていれば、ジャンが俺の体の下から抜け出し、浴室へと這って逃げ込んでいた。
「ごめん、俺、別に平気だから、気にしなくていいからな?」
 ジャンをただ見ていた俺に、言い含めるように告げて浴室の扉を閉め、程なくして水音がし出した。今のは一体。などと考えるまでもない。異様な興奮状態で、ジャンを強姦した。事実は一つ。頭は馬鹿のようだったが意識も十分にあった。

 床に落ちた自分の精液の痕。
 乱暴にしたつもりはなかったが、思いの外力が入っていたのか服を脱がす際に千切れたのだろう寝巻の釦が目に入る。最低だ俺。

 まんじりともせずに、床に座り込み、自身の思考とジャンへ行った暴行に苛まれ、十分ほどで浴室から出て来たジャンが俺を見て、一瞬だけ体を震わせる姿にも、胸がずきずきと痛んだ。
「まだ居たのか」
 何でもない言葉のようで、俺を非難する響きに聞こえて身が竦む。
「あの、お前、もしかしてオメガ……だったりする……」
 定期的に起こる体調不良、あの香り、性を伴う興奮、答えは考えるまでもない。
「まぁ、な。餓鬼の頃からベータって診断されてて、十九の時に初めて発情期が来たから、会社でも上の人にしか言ってねぇけど……」
「そんな事あるんだ」
「相当、稀みたいだけどな。オメガとしての発育不良と言うか……」
「あー、なるほど……」
 何だか俺の方が泣きそうだ。
 ジャンは何故、こうも平然としてるのか。
「そのせいか薬が体に合わなくてさ、フェロモンが上手く抑えられないんだよな。迷惑な体質だ」
 濡れた体のまま部屋に入り、箪笥からタオルを出して体を拭いていく。オメガだから強姦されても平気とか言うなよ。俺が泣くぞ。
 玄関先に座って動かない俺を顧みもせず、騒ぎもせず、実に冷静に服を着たジャンが再び薬入れを漁って台所で飲んでいた。
「何だそれ」
「オメガ用の避妊薬。妊娠したら俺も困るし、お前も困るだろ」
 思い切り出したから、確かに可能性はある。だが、そもそもが何故、そんなものを持っているのか。例えば。だ、似たような経験があったとしたら納得が出来る。
「ごめ……、いや、おれ……」
 謝罪をしても無意味な気がした。
 これは、どうすれば赦されるんだ。
 ジャンは赦さないために、淡々として何も受け入れないのか。
「だから、気にしなくていいって。フェロモン抑えられない俺が悪いんだし、大丈夫。平気だから泣くなよ」
 俺の側にジャンが座り込み、困ったように笑いながら顔を撫でる。
 どうも堪え切れずに泣いていたらしい。
 酷い事をしたのは俺なのに、何故、俺は被害者ぶって泣いてるんだ。ふざけてんのか。そして、気が付いた。ジャンは優し過ぎると言うよりも、基本的に諦めているんだと。

 そんなに諦めないといけないような出来事が遭ったのか。
 俺も諦められたのか。
 嫌だ。

「俺、お前が好きだからこのまま切れんのは嫌だ。どんな償いでもするから、なぁ。頼む。何でもする」
「なら、俺の前から消えてくれって言ったらそうしてくれるのか?」
 一気に全身の血液が抜けたように体が冷えた。
 手を握りながらも床に額を擦りつけ、懇願していた俺に、ジャンは悲しそうな眼差しを向けて、俺にとって絶望でしかない言葉を吐いた。『何でも望みを』ならば、それも実行しなければならない。
「ごめん、嘘。いいって、本当に気にしなくていいから、これからも飯食いに来ていいよ」
 口を半開きにして、目を見開きながらジャンを凝視していた俺に、救いの言葉をかける。どちらが本音なのか。
「ジャン……」
「服整えてから外出ろよ。公然猥褻で捕まるぞ」
 そう言えば、ずっと下半身を出した間抜けな姿のままだった。
 スラックスを引き上げ、寛げていた前とベルトを締めれば、ジャンが俺を立ち上がらせてくれた。
「あ、随分慌ててたけど、用があってここ来たのか?」
「あぁ……」
 思い出したように質問をしてくるジャンへ、気の抜けた返事をしてから栄養補助食品の入った袋の中を確認すれば、黒い折り畳みの財布が出て来て、俺は本来の目的を達した。達しはしたが。
「これで来ちまった訳な。ごめん……、何も要らない。って言えば良かったな」
「何でお前が謝るんだよ……」
「いいから帰って風呂でも入って忘れろ。またな」
 玄関から押し出され、無情に締まる扉を眺めながら俺は立ち尽くす。今後、どんな顔をしてジャンを会えばいい。
 忘れろ。なんて、出来る訳がないのに。

 どうしよう。

 どうしたらいい。

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